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律法と信仰 [美保師] [礼拝メッセージ]





◆コリントⅡ 3:5~18より

さて、新約聖書の中にあります『ユダヤ人とイエス様の関係』
また『律法と信仰との関係』これらについて不思議に思う点の一つが
あるんじゃないかなと思います。
特に、祭司長それから律法学者またパリサイ人たちがイエス様を信じない。
それどころか、敵対していったという事ですね。
それで次にイエス様を死刑に仕向けてしまいました。
彼らは、神様が与えたモーセの律法を熟知していた人たちです。
「そんなに知識が豊富で熱心な宗教指導者たちが
またなぜイエス様を拒否してきていったのか。」
今日はその理由を少し考えながら、今朝の聖書の箇所にある特別な恵みを覚えて
感謝し、また希望を新たにする事ができたらと思います。

ただ、その前に、どうしても私たちが覚えておくべき事を先にお話したいと思うのです。
それは、イエス様はすべての人のために身代わりとなって十字架に架かって
くださったということです。
この『すべての人』という言葉には、イエス様ご自身を死刑にした人たちも含んでいるわけです。
イエス様はそんなひどいことをした人々でさえ、神様が赦してくださるように
その尊い血を流して死なれ、そして復活されました。
このイエス様の救いを限定してしまうと、偏った聖書の読み方になってしまう危険性があります。
「どうしてAの人達は救ったのにBの人達は救わないのか。」
そのような感じです。
聖書の読み方が神様を裁いてしまう危険性。自分の好みや了見で判断せずに、
自分の了見を聖書に修正してもらう、そういう読み方ができたら幸いだと思います。

イエス様の救いは平等にすべての人に、どの人にも同じく差し出されている永遠のいのちです。
イエス様を十字架に追いやった人々にも信じる人々とまったく同じ救いを差し出してもらえます。
違いはそれぞれその救いを喜んで受けるか断るか、その違いです。
律法に従っていたユダヤ人にとって、もっとも難しかっただろうと思われる事は
「律法はいい。イエスを信じるだけの信仰」
っていう事じゃないかと思うのですね。
この『信じるだけの信仰』これは日本人にも共通しているのではないかと思います。
「信じるだけで救われる。」これは嘘っぽく聞こえるのです。
「ただ程高いものはない。」と言われています。
「後でとてつもない請求があるのではないか。」
「『信じるだけ』っていうのは軽すぎる。簡単すぎる。」と思うのですね。
ただし、私たち日本人以上にユダヤ人取り分け祭司、律法学者そしてパリサイ人たちは
長年この律法を熟知していただけに、イエス様の存在自体自分たちが頭から
否定されているように感じただろうと想像できます。

新約聖書でいうこの律法とは、神様からの掟、法律です。
モーセがエジプトからイスラエル民族を連れ出して、荒野で40年間さまよっている間に与えられました。
今朝の箇所でも触れているように、特別な方法によってモーセが直接神様から授かった十の掟。
いわゆる『十戒』というのが中心で、その他にも細かく1000以上の決まりがありました。
これらは、祭司長たちなどによって守って受け継がれて行ったのです。
律法そのものは悪いものではありません。
むしろ、秩序や清さのために必要でした。
人間同士のトラブルでも解決の基準となっていましたし、律法を守ることは神様への信仰の現れです。
私たちの社会でも律法がなければ無秩序で、そして大変なことになってしまいます。
何だかのルール、きまりがあるからこそ、その中で安心して自由に過ごせるものです。
この神様が与えた律法も、『神様と人との関係』また『人間同士の関係』に平和がもたらせるための
基準でありました。
基準ですから、その法律を守らなければ、当然罰則が伴うわけです。
「守って当然のもの。守らなければ裁かれる。」律法とはそのような役割のものでありました。
つまり、律法そのものには、永遠のいのちはないのです。
今日の箇所Ⅱコリント3:6の中に『文字は殺し』という言葉が最後の方に出てきます。
『文字は殺し』というのはそのことを言っているのです。
今日の週報にガラテヤ人の手紙からいくつか抜書きしておきました。
このガラテヤ人の手紙3:19に面白い書き方がされています。
『律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、
違反を示めすために付け加えられたもの。~』子孫とはイエス・キリストのことですね。
22節にも『聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。』とあります。
こう聞くと「聖書とはひどいものだったんだな。」と思うかもしれないですけど、続きがあります。
『それは、約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。』
さらに続きがあります。
23節『信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、
それは、やがて示される信仰が得られるためでした。』
結論としては24節『こうして、律法は私達をキリストへ導くための私たちの養育係となりました。~』
今の箇所をまとめますと、たくさんの決まり事、しかも基準の高い規則によって
人が振り分けられていたのです。
実際には誰一人この基準を完全に守られた人はいなくて、結局は神様に生贄を捧げて、
赦しを請うしかなかありませんでした。
しかし、これはわざとキリストへ導くための道整えだったわけですね。
「キリスト・イエスが現れたら、彼に従いなさい。彼を信じなさい。もう難しい規則を守らなくていいよ。
それは終わったよ。これからはイエスの考え方をしなさい。今まである1000以上の決まり事は
このイエスと同じ。イエスを快く迎えなさい。」ということに更新された。
律法からこれに更新されました。
しかも律法では、振り分けられて罰を与えるだけだったのに、
今度は『イエス様を信じる』という信仰に変わって、なんと永遠のいのちがあたえられる。
これはすなわち『救いをいただける』という意味になります。
まず、契約が更新される時に契約内容がバージョンアップされたのですね。
より素晴らしい新しい契約に変わったのです。
神様が意とされたことは人が違反して、
「私は罪人です。神様の救いがなければどうしようもない人間です。」
という意識を持って神のところに来ることでした。

「どうぞ赦してください。」「神様、私はだめです。」と思うからこそ救い主。
私たちの罪の贖い主が必要だと求めるわけです。
そこに救い主イエスの誕生の意味があったはずなのですね。
でも、パリサイ人、律法学者そして祭司長。
この御三家の人々はこの神様が意とされたことを履き違えてしまった。
「律法を守っている自分たちに罪はない。」という自己義認に走っていたわけです。
罪というのはイエス様の考え方をしないという意味なのです。
細かい事を省いておおまかに言えば、基本的にはイエス様の考え方をしないのが罪です。
私たちは神様の御前に罪人であると認めるからこそ神様の赦しの大切さが分かります。
そして、救われたら必然的に神様からの良きものが上から溢れるばかりに来て、
私たちを満たしてくれるのです。

今日の箇所Ⅱコリント3:5に『私たちの資格は神からのものです。』と書かれています。
信じる者には資格が与えられている。
3:6には『新しい契約に仕える者となる資格』この資格を頂いて、私たちはその後半に
あります『御霊に仕える者』に変えていただけるのです。
私たちは教会で、みんな何らかの奉仕をしていますけれども、
これは神様が与えてくださっている資格があるからです。
奉仕は大変なものが多いですが、神様に仕えることができる事を喜ぶべきです。
奉仕の資格を頂いていることを喜ぶべきです。
律法は私たちが神様の御前で罪を認めざるを得ない、その罪意識を明確にする為のものでした。
そして、そのことは私たちを真の救いへと導く、そのための役割だったのです。
そういう意味で先ほどのガラテヤ人の手紙では『養育係』という言葉で説明されていました。
ところが、このユダヤ人の祭司長、律法学者、パリサイ人は履き違えていたのです。
「守っている者はえらい。正しい。救われている。一方の違反者たちは罪人で救われない者たち。」
そういうふうに思い込んでいきました。
イエス様はそんな彼らのことを
『自分を義人だと自認し、他の人々を見下ろしている者たち』
と呼んでいるのです。

ここで考えてみたいと思うのですけれども、
『なぜ、この律法学者、祭司、パリサイ人この御三家の人々にとって、
イエスを信じる事が難しかったのか。』
『どのようなことが彼らの妨げになっていたのだろうか。』
という点ですね。
「彼らは自負が強かった。」と聖書を知っている人なら、分かると思います。
旧約聖書の救い主の預言にイエス様を照らし合わせてみると、
確かにこのイエスという人の家系は
「ダビデの子孫、生まれもベツレヘム、またやっている事も癒しとか悪霊からの解放。」
それらに当てはまっているわけです。
「それにしても、この事実は預言されている約束ではない。とてもじゃないけど認められない。」
彼らの目にはイエスが神を冒涜していると感じたわけです。
当時『神』という言葉さえ言えないほど、神様は清くて、近づけない存在でした。
そんな中でも自分たちが一番近いと思っていたわけですね。
それなのに、このイエスという人が現れて、「神を『自分の父』と言う。
自分と同等の扱いをする。よく見ると安息日だって守らない。
さらに自分たちが罪人扱いしている人たちや敵、蔑んでいる人を助ける、
一緒に食事をする、平気で親しくなる。」
自分たちのことを『忌まわしい』とか『偽善者』だとかこんな事まで言われています。
『あなたがたは人の前で自分を正しい者とする。しかし、神はあなたがたの心をご存知です。』
この御三家の人々もイエス様に対する気持ちは悪化する一方でした。
イエス様にこのように自己義認に呼ばわれた彼らは自分たちが正しいと思えば思うほど
腹ただしくなり、怒りが込み上げてきました。
憎しみが湧いてきました。
彼らは律法を守る事に関しては非常に熱心だったのですね。
逆に熱心だったからこそ、非難されると頭にきたのかもしれません。
この御三家の人々は律法を守ることに熱心でした。
「自分たちこそ律法をよくしていて正しいのだ。」と思っているのではないかと思います。
その自負が故にイエス様に対する嫌悪と怒りを燃やしていったのではないかと考えられます。
自分の都合がいいように受け取ってしまう事がありますね。
Ⅱコリント3:15を見ますと、本当に大切なことは何なのか。
おおいが掛けられたままで、聖書を読んでいるのなら、自分の都合のいい読み方を
してしまう危険性を再認識します。
ここでいう『おおい』とは、悪魔でも自分は正しいという様にしかものを
「見ない。考えない。対応しない。」という態度を示しているのです。
心の堅くなさ、そして方向転換を拒むことほかありません。
社会ではよくあることです。
いつの間にか自分が経験した事や最初に教わった事、最初に得た情報など。
正しいとして、それを基準に「考えていたり、判断してしまう。」おおいをかけられたまま
間違ったままの律法学者、祭司長、パリサイ人は目の前にイエス様を見ていながら、
見ていなかったのです。

しかし、私たちには素晴らしい約束が書かれています。
3:16『しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。』
いきなり信じる事ができなくても、聖書を読んで「イエス様、神様はいったいどなたなんですか。」
という疑問でもいいです。
ほんの少し「もしかして、神様だったんですか。」っていう気持ちでもいいです。
そのような気持ちを持つならば、神様ご自身がおおいを取り除いてくださります。
そのような気持ちで聖書を読むならば、どんどん分かってくる。
おおいは御霊なり神、主の働きによって取り除かれていくのです。
なんと感謝の事かと思います。
そして、この恵みは今後も続いていくのです。

18節を見てください。『鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄枯へと、
主と同じかたちに姿を変えられて行きます。』自分で「変えなくては」と思わなくてもいいのです。
なぜなら、18節の後半に『これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』とあります。
御霊に従うことによって、鏡である私たちはいっそうきれいに磨かれていくということです。
御霊の働きとは、ある人には自然的に起こる場合があります。
でも、それはほとんど前のことです。
もし、みなさんが「いえ、私は凡人です。」というふうに思われているのでしたら
日々の生活で起こってくる気付きにというふうに理解すると分かりやすいと思います。
「あっ、そうか。」という静かな気付き、よくあったのではないかと思うのです。

主は本当に私たちの身近におられて、常に働いてくださっています。
主が私たちをキリストと同じかたちに変えようとしてくださっています。
信仰を持って主なる御霊の働きに委ねたいと思います。


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