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神様との出会い [K姉] [証(あかし)]





私は、元々宗教は嫌いだし、神様はいないと思っていました。
そこにどんな変化があったかお話したいと思います。

私は日本で言う、ごく一般的な生活をしていたと思います。
それは仕事が忙しく、有休は取りづらく、趣味と言える物もなく、
休みの日は昼まで寝てゴロゴロ過ごす、人間関係でもストレスを抱えたり、
でもこれは私だけじゃなくみんな同じだと思います。
だから一般的な生活だと思っています。
そのストレスを何とかするために趣味を見付けようと思い、小さいころからやりたかった、
ダイビングを始める事にしました。
もともと海が好きなので、海に入っている事だけで楽しく、仕事以外の仲間が出来、
良い気分転換ともなりました。  

私の父は2005年に48歳で亡くなり、伯母もその数年後50代で亡くなりました。
私は自分もきっと60歳も生きないのかも知れないと思いました。
それを怖いとか考えた訳ではなく、自分の人生について考えるようになりました。
大好きなダイビングも連休がないし、有休も取りづらいので伊豆へ日帰りしか行けず、
沖縄や海外にも行ってみたいのに、一生のうちに何回いけるのだろうか??
そんなことを考え始めました。
そして、自分にダイビングの講習をしてくれたインストラクターがオーストラリアのパースで
インストラクターになった話を思い出し、自分も海外で資格を取れば海外でたくさん潜れるなぁ。
っと考えて、インターネットで調べ始めました。

インストラクターコースの留学について30歳までという記載を見ました。
そのとき丁度30歳になったばかりで、「あぁ。もう行けないんだ」って思いました。
取あえず資料請求したら数時間後に電話があり、お話をしていたら、
31歳の誕生日前なら行けることが分かりました。
行けないと思っていたので、行けると分かったら、行かなきゃ!!って思いました。
急に自分の生活が大きく変わり始め、人生に転機ってあるんだなぁ!って嬉しく思いました。
そして半年後仕事を辞めて2011年4月オーストラリアに行きました。

オーストラリアに来て数ヶ月後、私はシドニーに居ました。
シドニーの語学学校に通ってから、パースへ移動する事にしていた為です。
シドニーの教会で英語の無料レッスンがある事を知り、英語の勉強の為に行ってみようと思いました。
実際に来てみると、みんなが優しかったし、英語も聞けるし、
クリスチャンじゃない人も来ていたので、来やすいと思い、
パースに行くまでの5ヶ月間はなるべく来ようと決めました。
この時は、英語の勉強の為だけに来ようと思っていました。
私は、お坊さんが法事の際にするような、為になる話を聞くのが好きだったのですが、
教会のお話は神様、イエス様を信じると救われるとか、素晴らしい事が起こるとかだったので
全く心に響かず
「あぁ。これが本当の宗教かぁ。みんなイエス様とか神様を信じたいんだなぁ。
どうして、起こった事が神様のお陰とか言えるんだろう、神様がしてくれたか分からないじゃん」
って思っていました。

そのうち、聖書の学び会に出るようになっても、信じないと、何も起こらないって言うので、
受け入れることは難しかったです。
ただ私は小さい時、あるきっかけから自分が生まれた事を奇跡と思っていて、
その時から自分が何のために生れて、何かしなきゃいけないのではないか??と思っていました。
これは生まれた事が辛かったのではなく、この大勢の人間の中で、自分の意思があり、
自分が存在する事がすごいことだとまだ7,8歳の私は気付き喜んだうえでの疑問でした。
そして学び会の時に、
「神様が全てを創り、人間ひとりひとり、つまり私をも創った」
と教わり、それなら、神様がなんで私を創ったのか知りたいと思いました。
そして、イエス様を受け入れて、神様が私を創った理由を聞けるようになりたいかと聞かれ
『うん。』と答えました。
でも、クリスチャンになるってことだと、半分は思っていて、でも洗礼の儀式を受ける訳じゃないから
大丈夫だろうと思っていました。
正直この時はクリスチャンにはまだなりたくなかったんです。
なぜなら、クリスチャンになると言う事は、既に他界した父が地獄に居る事を
認めることになると思ったからです。
父はクリスチャンじゃないからです。
でも、私に聖書を教えてくれ、福音してくれた教会の友人のことはすごく好きだったし、
信じていました。
だから、彼女たちの話や、彼女たちの信じている事は真実なのだと知りたかった。

だからただ知ろうとしました。
その友達がYoutubeでイエス様の映画を教えてくれました。
それを見た時、英語だったので殆ど話は分からなかったのにも係わらず大切なことに気付きました。
「イエス様は、人として生きてしかも私なんかと比べものにならないぐらい大変な苦労をされ、
そして十字架に掛けられて死ぬと言う事がどんな残酷で苦しいことか」
ということでした。
そして、これは映画の中の話ですが、イエス様のこの世の父親が亡くなって、
イエスが酷く悲しんでいるシーンがありました。
それを見て「イエス様は私の気持ちを知ってる!!お父さんは地獄にいない!」って思いました。
そして、「すべての人の心を理解して下さっている!!」って事を感じました。
おそらくこの瞬間にイエス様を私は受け入れました。

私の心はすごく喜びに満ちていました。
でも次の日ぐらいから、急に心に何とも言えない不安感と、胸騒ぎと気持ち悪さが私を支配しました。
今までに経験したことのない感覚で体調不良とは違うと思いました。
教会へ来れば治るかと思ったけど、教会へ来るとひどくなりました。
クリスチャンの友人に状況を話すと、おそらく悪魔からの攻撃を受けているといわれました。
悪魔はクリスチャンを妬んで攻撃することがあるからです。
皆が祈ってくれました。
少し良くなったと思ってもやっぱり不安は消えませんでした。
自分でも毎日、私はイエスキリストに属するもの悪魔が去るように祈るようになりました。
悪魔の攻撃を受けてから3回目の日曜日には、すっかり良くなりました。
私は、神様は聖書で3という数字を良く使う事を知っていたので、
2回目の日曜日にも良くならなかった時、次は3回目だから治ると漠然とした自信がありました。
きっと、私の信仰も強まったのだと思います。
私はまず、悪魔によって自分がクリスチャンであると教わりました。
神様より先に悪魔の存在はすんなり信じました。
それ程、今まで味わったこと無い不快感だったのです。
それでもまだ、イエス様とか神様が実際には全く分かりませんでした。
私はただただ知りたくてずっと自分でも教えて欲しいと祈っていました。
このころ私はずっと、ある聖書箇所が気になっていました。

マタイ10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うようなら、わたしも天におられる
わたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

周りの人に、教会へ行っている事を話せずにいたことや、家族に話していない事を
ずっと気になっていたし、イエス様のこの言葉に、罪悪感が増していました。
だから勇気をもって自分がクリスチャンになったことを友達と家族に話しました。
その約1ヶ月後の12月頃から、不思議な事がたくさん起こるようになりました。
初め、教会で本を無くしました。
友達に電話で相談したら、その場で祈ってくれました。
私も家でお祈りしました。
そして、次の日その友達が見付けてくれました。
でも、この時私は、お祈りしなくても見つかったかもしれないと、あまり信じていませんでした。

次に私のipod touch が何故か突然インターネットに繋がらなくなりました。
パソコンとかは繋がるのに、ipodだけが繋がりませんでした。
私は、機械にそこまで弱く無いので「復元処理」という、初期化をしてみました。
でも直りませんでした。
お祈りしてから、もう一度試してもダメでした。
何度祈っても、何度やり直しても直りませんでした。
次の日も直りませんでした。
やっぱり、世の中そんなに甘くないかぁ。って思いました。
そしてその次の日が日曜日で、教会で聖書学び会の後に、友人に話し、
3人でこの事を祈りました。
そして、そのままバイトに行き、家に帰ってネットに接続してみると、一発で繋がりました!!
これは、本当にビックリしたし、祈りが聞かれた!て思いました!
 
けどなんで私が祈ってもダメだったのかなぁ?とも思いました。
牧師が祈ったから聞かれるとか、私が祈ったら聞かれないとかは無いと聞いていたからです。
でもすぐ分かりました。
もし、自分で祈ってすぐ直っていたら、私はまた、ただの不具合だったのかなぁって思って、
祈りが聞かれたと100%は信じられなかったと思います。
でも、このタイミングで聞かれたので、神様は本当に居たんだ!!!て感じました。
神様は私がすぐに信じない事も知っていて、このタイミングで祈りを聞いたのだと理解しました。
もっと言うと、私に知らせる為にipodを壊したのも神様だと思います。
それは、壊れ方が普通じゃなかったからです。

そして次の日、学校で嫌な事がありました。気持ちが酷く落ち込み、このままバイトに行ったら、
どんなミスをするか分からないし、働ける気がしませんでした。
以前、友達が言ってくれた事を思い出しました。
「辛い時は自分の力で頑張る事を止めて主に全てを預けてみて下さい。
そうすれば、主はそこに自分の意思を置かれます」
と言う内容でした。
それを聞いた時はまだ神様を信じ切れていなく、仕事の事など祈れないと思っていました。
仕事は頑張るものだと思っていたんです。
でも神様の存在を知ったので、 私は「イエス様、最近、私は凄く疲れているし、
学校で傷つく事もあって、このままだとバイトでちゃんと働ける気がしません。
だから、今日は自分の力で働けません。主よ。どうかあなたの御心のままに、私を助けて下さい。」
と祈りました。

バイトに行くと、テーブルの並びで、団体予約が入っているのが分かり、今日は忙しいのかぁ。
と思いました。その直後、お客様から電話があり、予約が15人になりました。
と言われました。
そのとき、私は良く分かっていませんでした。
でも話を聞くと30人の予約が、突然15人になったと分かりました。
そして、自分が祈った事を思い出し「ハッ」としました。祈りが聞かれた!!!!と思いました。
これだけ聞くと、オーナーが可哀想だと思うかもしれませんが、神様は私の祈りを聞く為に、
誰かに不利益を与えないと信じています。
なぜなら、神様はみんなを愛し、良い神様だからです。
でも、私自身も感謝し、オーナーにも今日の不利益分、なにか富を与えて下さい。
そして、予約の幹事をされていたお客さんも傷つきませんようにどうか配慮して下さい。
とお祈りしました。
祈りは必ず聞かれます。
だから、すぐにでなくても、必ず聞かれていると思います。

これ以外も、私の祈りはたくさん聞かれています。
火傷が綺麗に治ったり、大事な約束に遅刻しそうだったのが間に合ったり、
ニューイヤーイベントで、最高の場所で人混みにもまれる事も無く、
帰りまでスムーズに帰れた事、ブログ上で知り合った、特定疾患を患っている女性の為に祈ったら
2日後のブログに2年振りに薬が減ったと書かれていた事などです。

教会に来てから、お祈りの内容は、このような日常の小さな事を祈っていい事にまず驚きました。
お祈りと言えば、「お願い事」で、「一生のお願い」みたいなことだと思っていたからです。
でも、お祈りは「神様との会話でコミュニケーション」であり、こんな小さな祈りさえも聞いて下さる
すごく身近な、私達ひとりひとりに密接に関わってくれる神様だと知りました。

ある日の礼拝中のメッセージで気付いた事がありました。

マタイ14:25から33 《イエスは湖の上を歩いて、舟にいる弟子たちのところに行き、
弟子のペテロも舟から出て、水の上を歩いてイエスの方へ行ったが、風を見てこわくなり、
沈みかけイエスに助けてもらう》話のところです。

牧師先生は、新しい事を始める時は、この舟から出てみること、安全な所から勇気を持って
踏み出すことと同じだと教えて下さいました。
法事の後に聞いた、お坊さんのお話や、様々な人の体験談や、仕事の出来る先輩や上司
又は友達も、おそらく他の宗教も、人を励まし舟から出てみる勇気を与えてくれます。
でも、その後がイエス様は違うと思いました。
例えて言えば、私は今まで何度となく、舟から出て水の上を歩いてみました。
そして、すぐに沈みかけ、舟の上から、家族、友人や先輩、または色々なお話に、
何度も励まされ、何度も、何度も立ち上がりました。
そして実際には誰もつかんで助けてはくれていなかったのだと、
みんな、舟の上から励ましてくれていただけだったと思いました。
イエス様は、信仰の薄い奴だな。と言いながらも、直接手を伸ばし助けてくれます。
その前だって、自分が水の上を歩いて見せてくれます。
本当に困難な時は、イエス様しか実際には救えないのだと思いました。
私はただ、イエス様を信じついて行くだけでよく、つまずいても助けてくれる
ある意味もう頑張らなくても良いのだと知りました。

私の今まで聞いた、人の励ましや、為になるお話は、私自身がすごく頑張らなければいけません。
でも、そういった話の方が人の心にはすんなり響き、共感できます。
それは当然だと思います。
なぜなら、みんな神様もイエス様も知らないからです。
でも、実際に居ると知った今、私の心は軽くなりこれからに希望が持てました。
私はただジンベイザメとコバンザメのようにイエス様に守られてついて行く。
イエス様を知らなかった時、ついていくだけの人生なんてつまらない。て思いました。
でも、そうではないのです。
実際に生きていくのは私自身だし、イエス様は私の祈り、つまり話を聞いて下さいます。
イエス様は私の心をも考慮し、最高の道を教えて下さいます。

もちろん、困難が無くなる訳では無いのも分かっています。
困難な時が無くなったら、人は、幸せな事が当たり前になって、幸せを幸せとも思わなくなると思うし
困難な時ほど、人は多くを学び感じるものだと思います。
そういった意味でも、神様は困難な時をも愛を持って与えて下さるのだと思います。
でも、困難なときも、イエス様は必ず手を伸ばし助け出してくれると、今は信じられます。
教会に初めて来た時、違う世界の様に感じました。
確かに、この世とは違う、確かな希望と明るい未来がある世界でした。
そして、私は思いました。
私はこの世の事すら何も知らなかったと・・・。
私は、宗教の枠にとらわれず、逃げずに勇気を持って真実を知ろうとし、
完全に否定する前に、疑いながらも知ろうとし、本当に良かったと思っています。

私はこれからも、この世の事も、聖書にある事実も、神様についても全て、
真実を追求していきたいと思っています。
そして、このノンクリスチャンの時に感じた事、クリスチャンになって間もない
この時期に感じた初心を大切にしたいと思います。

今まで出逢った全ての人へ感謝します。
ありがとうございました。
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