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主が私たちとともにおられますように [ファーガソン師] [礼拝メッセージ]





◆ヨシュア1:1~9 より

30年前、畑沢キリスト教会の歩みが始まった。辛いこともあっただろうが、神様の導きと祝福があったであろう。教会の皆さんは、神とともに歩み、神様はご自分の民である地域の中にともにおられることを経験しているだろう。主が行われた奇しいみわざを思い起こせ(詩篇)あなたの創造者を覚えよ(伝道者の書)。神様は30年間を祝福してくださっているので、喜んで主に感謝をささげよう。そして、これからも神様とともに進んで行こう。主の導きと主の言われていることは何かを考えよう。ヨシュア記はイスラエルの民の新しい出発・新しい指導者・新しい地に入る話である。現在の私たちにも通じることがある。16年前、私は家族と日本に来た。言葉、食べ物、文化の違いがあり心配があったが、強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(9節)この約束は励ましだった。
ヨシュアに言われた言葉であるが、ヨシュアや私の家族だけではなく、神の民である私たち皆への約束である。ヨシュア記の背景は、イスラエルの民はエジプトにいて奴隷だった。モーセの指導でエジプトから救い出された。エジプトから出て約束されたカナンの地に行った。カナンに入る前、民の中の12人はカナンを探りに行った。帰って来て、カナンで採れたすばらしい果物を見せたが、巨人がいると報告した。10人はカナンの地はダメだと言ったが、ヨシュアとカレブは主に信頼して信仰の目で見た。結局、イスラエルの民は主の御心に逆らったので、約束された地に入れず30年間さまよった。ヨシュア1章はようやくカナンの地に入ろうとしている箇所である。モーセの後任として、神様はヨシュアをイスラエルの新しいリーダーとして任命した。ヨシュアの指導のもとイスラエルは約束の地カナンに入った。その後何が起こったかヨシュア記に記されている。ヨシュアは知恵の霊に満たされていた、主に従い通した者であると聖書の他の箇所に書かれている。

わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(5節) 神様はヨシュアにモーセと同じ約束をしている。神様は御計画を実現するために、ある人だけということはなく、別な働き手を与えられる。神様の御計画は続く。畑沢教会も今まで何人かの指導者が奉仕してきた。それぞれ役割があり、神様の働きは続いている。神様はカナンの地についての約束を繰り返している。わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。(3節)与えられた地であり、選ばれた地である。ヨシュアに神様の命令がくだる、ヨルダン川を渡り、地に行け。(2節)約束された地に入るためには信仰が必要である。神の言葉に信頼し従うことが大事である。30年前、ヨシュアとカレブだけが信仰の目でカナンを見た。指導者として、今またヨシュアに信仰が必要である。ヨシュアにとっても私たちにとっても、信仰は神の約束に基づいているものだ。5節の神の約束は指導者だけのものではなく、私たち皆がいただいている約束である。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」 (ヘブル13:5~6)私たちの信仰はこのような約束に基づいている。イスラエルの民はこれからカナンの地に入り、継ぐことになる。神様の祝福を得るために、私たちは何かをしなければならないこともある。神様は私たちに強制的に与えることはなさらない。私たちは信仰によって、神様が与えようとするものをいただくために一歩前へ踏み出さなければならない。その時、強くあれ。雄々しくあれ。(6,7,9節)と命じている。主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(9節)この主の約束は私たちにとって強い源泉である。主から力を得、主と共に歩んでいるなら強められる。この世の強さではなく、主から流れる強さである。もし、一歩前へ出られないとしたら、心配や恐れではなく信仰の問題である。神の約束に信頼していないのかもしれない。
イエス様は言われた。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。マタイ17:20 私たちはよく信仰の量を考えるが、誰を信頼しているか、偉大な神様を信頼することが大事なのである。小さい信仰であっても神様とともに歩んでいれば十分である。 守り行なう(7節)ことは神に祝福される秘訣である。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。 (8節) この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。8節) 当時のイスラエル人は神の教えを覚えるためいつも口ずさんでいた。主の言葉は生活の大事な一部だった。朝ちょっとだけ読むのではなく、一日中、聖書の言葉を思い出したり、口ずさんでいた。

わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主があなたの行くところどこにでも、あなたとともにあるからである。(9節) 今、皆さんが直面している問題は何だろうか。畑沢教会の将来はどんなであろうか。この地域のニーズは何だろうか。皆さんの役割は何だろうか。自分にとって次のステップは何だろうか。心配はあるか?一歩前へ踏み出すのは恐いか?前に巨人のようなものはあるか?ヨシュアや当時の経験から私たちは励ましを受けるだろう。私たちも同じ神により歩んでいる。変わらない神、変わらない御言葉である。
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