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無知の口を封じる [ヤング師] [礼拝メッセージ]





◆第1ペテロ2:11~17 より

去年から第1ペテロをシリーズでメッセージしているが、クリスマスを挟んで、今日はその続きである。
聖なるものとされなさい(1:15)
すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てなさい(2:1)
肉の欲を遠ざけなさい(2:11)
ペテロの手紙のこれらのみ言葉は自分の事をいっている。私たちはどういう者かというと、
旅人であり寄留者である(2:11)。

私たちは周りの人に見られているので立派なふるまいをしなさい、とペテロは言う。イエスキリストのことばに
「わたしがこの世のものでないように、彼ら(私たち)もこの世のものではありません。」(ヨハネ17:16)
とあるが、誤解をしてはいけい。私たちはこの世に関わるものだ。イエスは続いて
「神がわたしを世に遣わされたように、わたしも彼ら(私たち)を世に遣わしました。」(ヨハネ17:18)
と言っている。私たちは世に遣わされているのだ。私たちは地域に住んでおり、家族があり近所の人たちもいる。職場もあり、この世の中にいるがこの世の者ではない。
異邦人(クリスチャンでない人々)の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。(1ペテロ 2:12)
クリスチャンは非難されることがあった。ローマ帝国の時代、クリスチャンが聖餐式で人間を食べているのではないか、という噂があり嫌がられていた。また、教会内でお互いを兄弟姉妹と言うが、兄弟姉妹で結婚するのは近親相姦ではないかという噂があった。が、生き方や振る舞いを見て、ついには神をほめたたえるようになる、といっている。
人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、 また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。(1ペテロ 2:13-14)
歴代のキリスト教会は現状維持を重んじてきた。ヨーロッパでは、王様は神によって建てられているから反発してはならない、反発すれば国から罰せられ神にも罰せられると教えた。何世紀か経ち、イギリスに内戦が起こり王は負けた。国会はキリスト教国のつもりで国を変えた。今では、どの王も神によって立てられていると思っている人は少ないようだ。が、聖書に書かれているので、従わない人は神に罪を犯すというのである。従うこと・服従することは同意するとは限らない。同じ意見、同じ方針と言ってない。反対しない、と言っていない。
すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。(1ペテロ2:17)
み言葉のバランスを取るのが難しく、多くのクリスチャンは迷ってきた。聖書には、政府に反対するな、とは書いてない。完全に良い政府はなく、完全に悪い政府もない。全ては改善する余地があり、私たち民衆は改善に参加したり働きかける義務があると思う。ペテロもパウロも悪い政府があることを知っていた。被害にも遭った。ローマにより殉教した。旧約時代の預言者も、自分の国であるイスラエルや外国の政府を非難していた。神を敬う者は人間の権力も敬うことができるはずだ。ある本に、「すべての政府に反発し、すべてに服従する。服従こそクリスチャンにふさわしい反発なのだ」とパラドックスが書いてある。クリスチャンの謙遜はこの世に勝つ。
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(1テモテ2: 1-4)
王や政府のために祈るのは、平和な信仰生活のためである、とパウロは言っている。平和があれば、信仰を表す余裕を与えてくれる。平和のためには良い政府が必要だ。私たちの社会の平和を神が望んでおられる。
善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。 あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。( 1ペテロ2:15-16)
神のみこころである愚かな人々の無知の口を封じるのは議論によってか?振る舞いや生き方によって、である。彼らは私たちを悪く言おうとしても、りっぱな生活をしていると言えなくなる。クリスチャンはそうありたい。私たちは自由な人々だ。心に自由はあっても悪はさせない、善を行う権利がある。誰もそれを奪うことはできない。 マルティンルターの有名な言葉がある。「キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な主人であって誰にも従属していない。キリスト者は、すべてに奉仕するしもべであって誰にも従属している。」人間が建てた制度で私たちの自由を奪うことはできない。自分から進んでキリストに従う決心をする。従うことが私たちの自由な選択である。奉仕するが誰にも支配されない。それはクリスチャンのすばらしい自由だ。私たちは政治に従い、税を納め、交通ルールを守り、登録すべきものは登録する。 人間が建てた制度も神の国らしいものになっていくように、祈り願っていくのだ。今の制度も、神のみ心を実現させることを願っていく。 全ての人が救われるように、この教会がある。私たちはそのためにこの町の中にいるのである。全ての人が信じるように神は望んでおられる。そのために、この世に遣わされている。


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