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神を愛する [福田崇師] [礼拝メッセージ]

◆マタイ22:34~40より
ー音声1ー
イエス様を十字架に付ける証拠を得るために、律法(旧約聖書)の専門家が、イエス様を試そうと質問をしています。
イエス様の答えは
「神を愛し、人を愛する」ということに尽きる、ということでした。
律法学者の反論はありませんでした。
神を愛することと隣人を愛することは究極的に一つのことです。
「神を愛する」ことについて考えましょう。
イスラム教では、神は偉大過ぎるので神を愛するとは恐れ多い、ということです。
仏教や神道で、神を愛するということはありません。
聖書において、神様はご自分の方から心を啓(ひら)いて示して(啓示=けいじ)おられます。
聖書の神様は人格的な神である、と明白に示されています。
神は考えることができる、決断することが出来る、実行することが出来る、愛することが出来る存在です。
私たち人間は神のかたちにつくられていると、創世記に記されています。
私たちは考えることが出来る、識別することが出来る、実行することが出来る、振り返ることが出来る、将来の事を考えることが出来る、自分が死んだ後の事を考えることが出来ます。
そんな私たちにイエス様は
『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 
と旧約聖書をまとめておっしゃっています。
私たちをつくった神様は愛の方であり、その神様を私たちは愛するように、ということです。
「神を愛する」とはどういうことでしょうか。
神様が願っている生き方をすることです。イエス様が言われた歩みをする、教えた戒めを守っていくことです。行いによって救われるのではありませんが、イエス様は
もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネ14:15)とおっしゃっています。他の箇所でも繰り返し言われています。
掟を守ることを強調すると、もっと大事なことが飛んでしまいます。
ー音声2ー
規則を守る以上に、
「父とわたしはその人の所に行き一緒に住む」(ヨハネ14章)と、神様の愛は前提にあります。
神様は私たちを愛しておられ、私たちの所へ来て一緒に住んでくださいます。そういう中で、「神を愛せよ、隣人を自分のように愛せよ」と、神様が私たちに期待しているのです。
救われて天国行きの切符を手に入れたら後は好きにさせてもらう、というものではありません。地上の生活で神様に愛され祝福され、神様を愛し神様との交わりを持つなら一緒に住んでくださるのです。一緒に住んでくだされば生き方があります。神様と共に歩んでいると実感できる人生です。それには、従うことが欠かせません。
クリスチャン生活が長くなると知識も増えていきます。知識が増えることは必要です。それは比較的簡単ですが、イエス様のように変えられていくのは難しいことです。
イエス様ご自身が「神様を愛する、隣人を愛する」歩みをされました。
イエス様は「わたしを愛する者はわたしの言葉を守る」(ヨハネ14章)と言われたことを真剣に受け止めなければなりません。
私たちは神様を愛し、神様が願っておられるように歩むことを求められていますが、
私たちは自由意志が与えられています。選び、識別し、決断します。どのように歩むべきか聖書は教えています。が、一人一人に具体的に職業の選び方、結婚する相手は誰にするか、住む場所について書いてありません。
私たちの自由意志があるところに、神様は私たちに期待しておられます。
クリスチャンは神様に召された者です。召されるとは、使命や役割を与えられているのです。
悔い改めた後は2通りあります。
私たちは悔い改めてイエス様を信じて洗礼を受けます。その後、主導権を自分において自己中心の歩みをする。このようなことは十分あり得ます。
もう一つは悔い改めた後、人生の軸足を神様側に移すということです。それは時間がかかるかもしれません。
「イエスは主です」と主導権を神様にゆだねることは、罪深い人間にとって簡単なことではありません。
ー音声3ー
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして
ということを自分の意思で決めて、イエス様を中心としたクリスチャン生活を歩んで行きます。そこには感情も含まれています。
神様を愛することや人を愛することは相関関係があります。ですから、究極、神様を愛することと人を愛することは一つになります。
自分の神様への歩みはどうであるか、神様側の視点に立ってみたらどうでしょうか。
ディボーションをしていて、神様は人の祈りを聞いているけれど、神様が言いたい時に人は終わりにしてしまうことがあるかもしれません。神様側から見て、私たちの信仰生活はどうでしょうか。
神様を愛することで私たちは成長しているでしょうか。神様はそれを熱望して待っておられます。 神様との交わりが深まっていき神様の期待がわかるようになると、神様に応答していくことができます。 
イエス様が再び来られ新天新地が実現する時にすべてが新たにされる、と聖書に書かれています。今、私たちが住んでいる世界と新天新地は非連続性になります。が、(信仰を持っている)私は新天新地でも同じ人間で連続性があります。
この造られた世界がどんなに汚染されてもイエス様が来られたら全てが新しくなる、という考え方があります。
一方、神様が造られて非常に良かったという世界を人間は台無しにしてしまっている、神様の栄光の為に人間には責任がある、と考えるクリスチャンがいます。神様が造られた世界を私たちは愛して自然のケアーもしていく、ということが含まれています。
地上で救いさえ確保していれば、イエス様を信じてさえいれば、後はイエス様が変えてくださるという考え方はおかしいです。
イエス様が変えてくださることは確かですが。
私たちは神様から呼ばれて神様のもとへ帰ることが出来ました。洗礼を受けてクリスチャンになりました。救いをいただき神の子とされました。
では、どう生きていくのか、が大事です。
「私にある自由意志を神様にプレゼントします、私に何を期待しておられますか」という神様との交わりの中で、神様は一人一人に召命を与えられます。

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