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向こう岸から来たイエス [丸山師] [礼拝メッセージ]

◆ルカ8:26~39より
ー音声1ー
イエス様は力強く確信を持って「さぁ向こう岸へ渡ろう」と言い、嵐も静められ、ガリラヤ湖の向こう側に来てくださいました。
その嵐の箇所は教会の重点聖句として4月に既に説教しました。今日は実際に舟が向こう岸へついたところです。
イエス様一行は向こう岸を夕方出発しているので、到着したのは夜中でしょうか。
悪霊に取りつかれた男、豚の大群が湖に入る異様な光景です。
私たちはこの人を見ると、異常だと思います。人を異常だと思う自分は正常だと思っているということでしょう。
もしかして、イエス様に出会わなければ誰もがこの男のようなものではないでしょうか。
私たちには罪があります。まさしく悪霊、サタンの支配下にある人間です。この男の人と一緒です。自分で自分をコントロールできない、裸のように自分の罪をさらけ出しているようなものです。裸で何が悪いと思ったり、または自分が裸であることがわかっていながらも、それを認めたくない裸の王様のようなものでしょうか。
男は墓場に住む、生きていながらも霊的には死んでいるような状態です。鎖や足かせを断ち切るほどの凶暴性、そんな自分で自分をどうしようもできなく大声をあげる。そして助けが来ようとしても、イエス様と出会うチャンスがあっても拒絶する。他の福音書ではこの箇所でイエス様に対して「かまわないでくれ」と言っています。私は神なしで生きるのだからということです。
罪のもとにある人間というのはこれほどまでに悲惨なのです。
イエス様が名前を問うと「レギオンです」と答えます。レギオン、ローマの6000人からなる軍隊です。悪霊が大勢入っていたことのたとえかもしれません。
この男につく悪霊を私たちは恐れてしまいますが、悪霊自身はイエス様のもとにひれ伏したように、その力は遥かに及ばないとわかっているのです。31節の底知れぬ所とは、黙示録20章にある審判の日まで閉じ込められる所です。
大勢の豚とは、マルコでは2000匹です。
2000匹の豚がいきなり、ドドドって暴れて、足音やそこらじゅうに漂う匂い、まだ夜でしょう、普通じゃないことです。恐怖です。
悪霊はそのまま人から出ることなく、なぜ豚に入ったのでしょうか。さらにイエス様はなぜそれを良しとされたのでしょうか。豚を飼っていた者は逃げ出し、恐ろしさと大きな経済的損失です。注解を見ても色々と議論されていますが、決定的な事はわかりません。結果は、一人の人は悪霊から救われます。
男の悪霊は追い出されたけれど、イエス様にはここから離れてほしいと、あまりにもこの出来事が衝撃的だったのです。
イエス様を癒やす人というより、むしろ破壊する人と見たのでしょうか。
ー音声2ー
男はイエス様について行きたいと願いますが、イエス様はそれをよしとしません。漁師には急に「私についてきなさい」と召したり、「地の果てまでも福音を伝えなさい」と派遣する一方で、男には「あなたは家に帰りなさい、そこがあなたに遣わされた場所、そこでどんなに大きなことが起こったかをただ伝えなさい」と言われました。
私たちもひとりひとりが遣わされている場所が違う、ということです。伝道というのは、結局はイエス様に出会って自分がどう変わったか、どれほど大きな事をしてくださったかを伝えるということでしょう。
救われた気持ちを自分の中にとどめておくことができない、伝えずにはいられない気持ちです。
39節「いい広めた」という、なかなか使われない言葉が使われています。
わかりやすく考えるために使徒の8:4~5お開きください。
聞くだけでは伝わらないかもしれないので、これを録音で聴いている人も開いてください。
4節:散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
5節:ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
この4節の宣べながら、5節の宣べ伝えた、原語は違う単語が使われています。
4節の方は福音を意味するユーアンゲリオンということば。良い知らせをもたらす、告げる、よく使われる言葉です。
5節も告げるという言葉で、“伝える“は一緒ですが、これは説教です。福音書ではイエス様はもちろんですが、バプテスマのヨハネとか、ここでは使徒のピリポ、弟子とか限られた人に使うのがこちらの表現です。
ルカに戻っていただいて、この男がいい広めたと言う言葉には説教の方が使われています。悪霊につかれていた男がイエス様と出会って、御言葉を伝える人に、伝道者になったようです。
豚の所有者やこの地方の人々には損失があり、明らかにイエス様を歓迎していません。
狂った男はまともになったけれど、豚の所有者は財産を失っています。豚の所有者の天秤は狂った男の癒やしよりも、遥かに豚の方が重いです。この男の身内だったら、損失はあったけれどお前が正気に戻ったのだから・・・となるかもしれません。
結局他人事です。財産を失ったり、労力や時間など関係のない人の為に自分の事を裂くのは綺麗事ではありません。難しいです。自分に近い人が悲しむと痛みます。ニュースで見る遠いどこかの誰かに痛みがあって、近い人のように悲しめるでしょうか。
人間のそのような罪ゆえの弱さ、自分本意なところ、そのようなものであることを自覚することは大切です。ただもっと大切な事があります。それは対岸の火事のように自分には関係ないと思うようなところにも、来てくださるお方に目を向けるということです。
はるか遠い向こう岸から来てくださる方に出会うということです。
今日の箇所は一人の人がイエス様に救われるために、今までとは違う犠牲があると思います。たとえば前の箇所では、友人が屋根を壊してまでイエス様のもとに病人を連れてきます。
しかし今日の箇所は、ガリラヤ湖を渡り、嵐にあい、ようやくたどりついて、
でも癒やされるためには豚も犠牲になって、追い出されて帰る。人間的にみるとあまりにも大きすぎる犠牲ではないでしょうか。とんぼ返りの旅です。
 
半年前の就任式で、私は毎週命がけで仕事ができるなんて幸いだけど、
他の人からみればクレイジーな歩み、クレイジージャーニーといいましたが、
はるか向こう岸から一人の魂を求めて、来てくださったイエス様のこの旅こそ
私たちには考えられないクレイジージャーニーでありましょう。
もっといえば、イエス様はガリラヤ湖の対岸よりも遥かに遥かに遠い向こう岸からおいでくださいました。父なる神のもとにある天国からこの世へ、遠すぎるはずの向こう岸へ、です。神である方がその在り方を捨てられないとは考えなかった。私たちの罪ために人となられたお方がいた。
イエス様がなさった奇跡でこれ以上のものがあるのでしょうか。
イエス様が来てくださったクリスマスの先取りを、今日の箇所でしたような気持ちがいたします。
クリスマスまで、はるか向こう岸から来てくださったお方に心を留め、考えられないような犠牲をはらって来てくださった方を思いましょう。 

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