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名前は書かれていますか。 [丸山師] [礼拝メッセージ]

◆ルカ10:17~24より
ー音声1-
宣教から帰ってきた弟子が持って帰ってきたものは喜びでした。
弟子たちはイエス様に権威を授けられていました。イエス様のお名前という権威がありました。
イエス・キリストを信じている人をクリスチャンとかキリスト者と言います。
使徒11章で初めてキリスト者とアンテオケで呼ばれました。
自分たちで言い始めたことではなく、外から言われたことでした。それは敬意を込めてではなく、蔑称のような、からかうような、馬鹿にするような言葉でした。
使徒たちはそれを嫌がるどころか誇りとして、自分たちの方から用いるようになりました。
ギリシャ語ではクリスティアノスと言い、キリストという言葉と属するものという言葉の合成語です。キリストに属するものだから、皆がイエス様の名前を与えられている者です。
 
イエス様は喜びに溢れた弟子たちに答え(18,19節)ました。
弟子たちはそれぞれ違う場所に行き、イエス様のお名前によって悪霊を追い出しました。すでにイエス様はサタンに勝っています。
が、イエス様の生涯はサタンが付きまといました。
ペテロにも「下がれ、サタン」と言いました。十字架に進ませないように、という言葉はサタンの誘惑という理解があったのです。
 
サタンの力の前では人間は勝つことはできないでしょう。
が、イエス様の力の前ではサタンの力も歯が立ちません。イエス様の力は十字架によって私たちの罪を背負ってくださいます。
それによって、この世界の上にサタンが持っている支配する力を滅ぼしてくださいます。
 
「いなずまのように」は、突然に、と読んで良いでしょう。サタンは予期しない形で
地に落とされた。人間を支配できると思っていたのに弟子たちによって落ちてしまったのです。
私たちの周りにある、私たちを超える悪の力。全てのものの元はサタンになります。
ただ、イエス様を見ていれば、イエス様を信じて歩むなら、恐れる必要はないのです。
イエス様が悪の力に負けることはありえないからです。
 
喜んでいた弟子たちにイエス様は続けて言い(20節)ます。
「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名(自分の名前)が天に書き記されていることを喜びなさい。」
「あなたがたの名」の後に各自、自分の名前を入れてみてください。
もっと喜ぶ事がある、もっと大事な喜びがある。もっと根本的なものがあるのです。
弟子たちのように何かを成し遂げた特別な体験、そこだけに喜びがあったらどうでしょうか。
弟子たちがうまくいって知らず知らずのうちに高ぶった、ということを少し前に学びました。自分を持ち上げる、自分を誇ること。
 
自分の体験によってしまうのなら、うまくいっても、いかなくても問題があります。
私たちが自分のしたことを喜んだり喜ばなかったりするところに軸を置いていたら疲れるでしょう。自分や周りの状況に一喜一憂していたらしんどいです。
イエス様は、揺れ動くものではなく揺れ動かないもの、もっと確たるもの、絶対的なものに喜びなさい、と言われます。
 
21節の喜びも凄い喜びです。
イエス様が聖霊によって喜び、天の父なる神様に語ります。三位一体の喜びです。
知恵あるものや賢いものには隠されている、わからない。高ぶっている人、自分の力により頼んでいる人、自分の力で何とかできると思っている人には、天に名が記されている恵みは隠されてわからない。
逆に幼子にはあらわされる。幼子、自分の無力さを知っているもの、自分は何も持ってないことを認めている人、そういう人に神様は名前を記している恵みを示してくださいます。
その恵みを教えてくださるのはイエス様です。
 
22節はわかりにくいです。
父なる神様とイエス様が一体ということ。そして私たちの救いは全てイエス様に任されてあり、イエス様が父なる神様を私たちに示してくださることによって私たちはその救いにあずかれるということです。
このイエス様を信じて従い、この世界に派遣されて歩むことの中で、私たちは自分の名前が父なる神様の天のリストに記されていることを確信して、喜びのうちに生きることができるのです。
 
再びイエス様は弟子に語り(23,24節)ます。
私たちが見ているもの、聞いているもの、それはイエス様が示してくださった天の父なる神様の恵み、名が記されているという事実です。イエス様が十字架の死と復活を経て天に上げられたという事実の前にサタンは既に天から落ちている。神様が私たちの罪を全てゆるし、私たちの名を天に書き記してくださっている。この恵みから私たちを引き離すものは何もありません。
ー音声2ー
自分の名前が記されているか、記されてないかは大きな違いです。
名前がないということはどうでしょうか。
少し前に、牧師をお休みしている先生にお会いしました。
休職中は教団の冊子や色々なものから自分の名前が消えてしまうらしいです。それがやっぱり寂しいと言っていました。
名前が漏れるっていうところの悲しみもあります。
試験の合格発表で実際に名前が載っていると入学でき、なかったら入れません。そこにあるかないかで人生も変わってしまう場合もあると思います。
今日の聖書も同じです。天に名前が記されていれば天に入れる、書いていなかったら入れないということです。シンプルといえばシンプルです。
 
私たちは住んでいる場所に市民として名前が登録されています。
私たちの名前が天に記されているとは、天国の民とされていることです。
いま地上にありながら、すでにそうであるとは不思議なことです。
やがて必ず私たちは天の故郷に帰ります。罪を全て赦され、きよめられたものとして神様と永遠に共に生きる、と聖書に約束されています。こんな喜びが他にあるでしょうか。この喜びをいつも持っていたいと思います。
 
私たちの人生は色々ありすぎて、慌ただしくて、神様が見えなくて、大事でないものばかり見て、本当に大事なものを見られない事があるでしょう。
本当に見るべきものを見て、喜びを感じたいです。
 
ずい分前ですが“雨が降ったら傘をさす”という動きになる、という事で、
 “聖書を読んで、それを行うという動きになっているか“と話しました。
雨が降った時は、聖書を読んで行っているか思い出してくださいね、と話しました。
同じように、(雨でも晴でも)空を見上げる時、天に自分の名前が記されている喜びを思い出してください。
 
名前が記されていることに、イエス様のどれだけの犠牲が払われているか、喜びましょう。
 
もう一つ大事な事があります。
今日帰ってきた弟子のように主の為に働くこと、イエス様の名前によって悪霊に勝利することも素晴らしいですが、それができるのはまず、私たちの名前が天に書き記されているということだと思います。そこからキリスト者、主イエスに属する者の歩みができます。
 
私たちの生きるこの世では何か凄いことをした人、今までやらなかったことを成し遂げた人の功績を称えて記念碑に名前を刻みます。
しかし、天においては正反対です。
私たちが主の為に一生懸命働いて奉仕をしたとか、良いことをしたから天に私たちの名前が書き記されるのではありません。
私たちの名前は既に書き記されています。
それを信じれば私たちの生活も変わります。
天を見上げるところから信仰生活は始まります。
 
私たちは天に名前が記されていることを喜んでいるでしょうか。
天に私たちの名前が記されているなら、素晴らしいのです。
私たちの名前が記されていれば、地上の命を終えても、天の国に移されます。
 
この世でどんなに成功しても、天に名前が記されていなければ、絶望だけです。
逆に、この世で何もできなくどんなに報われなくても、天に名前が記されていれば、永遠の喜び、永遠の平安が与えられます。
この世の私たちの生はどれくらいでしょうか。
詩篇の作者は、私たちの齢は70年、健やかであっても80年、と歌いました。数十年です。しかし時間は永遠に続き、その永遠は天国です。
イエス様を信じれば、あなたの名前は確かに天に刻まれます。
 
 

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