隣人になる [丸山師] [礼拝メッセージ]
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「永遠の命を受ける」とは神様の救いにあずかるということです。
一見すると、非常に信仰深いような問い(25節)です。
ルカ18章には金持ちの青年が同じようにイエス様に問います。
が、同じ質問でも金持ちの青年が言ったことと今日の箇所では、その思いは異なります。
今日のところはイエス様を試そうとして言ったのです。律法の専門家ですから、自分の中で答えはありました。イエス様がこの問いにどう答えるか、それをテストしてやろうという事でした。悪意ある問いです。
イエス様は質問を質問で返します。
律法にはなんと書いてあるか、あなたはどう読んでいるか。
イエス様の皮肉とユーモアでした。
律法の専門家ですからちゃんと答え(申命記6:5とレビ記19:18)られます。
この2つの教え“神を愛すること、隣人を愛すること”は律法の要約、基本的な事です。
テストしたつもりのほうが逆にテストされています。
誤解しない為に話しておきますが、28節の言葉は、救われるために27節の言葉(神を愛し隣人を愛する)を行いなさい、ではありません。行いによって救いを得られるとイエス様が言いたのではありません。
行いによって救われることは人間にはできないので、イエス様が来てくださったのです。
キリスト教は、現実の堕落した人間には救いはそもそもできないという前提で生まれている教えです。罪人はただ信仰によって救われると、パウロもこのレビ記を引きながら、ガラテヤ3章11節で言っています。
「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。義人は信仰によって生きるのだからです。」
律法学者の「何をしたら永遠の命を得ることができるか」という問いに、
イエス様の答えは、あなたはそうやって考えている、主張しているのだから、その通りにしたらいいだろうと、皮肉をこめて言われたのです。
律法学者は焦ったでしょう。私の隣人って誰のことか。自分の正しさを示そうとしました。
イエス様の言葉の中に、あなたは自分が考えて、主張している通りに生きていないのか、という問いが含まれていると思ったのでしょう。
イエス様はたとえばなしをします。
話は非常にシンプルですが、ユダヤ社会でのことなので、わかりにくいと思います。
サマリヤ人とユダヤ人はお互いを嫌っていました。特にユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑していました。
祭司もレビ人も通り過ぎていってしまいますが、文化的な背景があります。
ユダヤ人に汚れの律法があり、助けたい気持ちがあっても、祭司が避けたのもわかる、とユダヤ人は思うわけです。たとえ話の中にそこまで汚れという事を考える必要があるのか、イエス様がどう考えていたかわかりませんが。
今日の箇所は“良きサマリヤ人”と題がつくような有名な話です。愛せないことや人を助けることのできない自分は悪いと、聞きたくない話でしょうか。
イエス様が言われることは人助けをしなさい、という事だけなのでしょうか。
もしそうであれば、わざわざ祭司やレビ人でなくても良いし、サマリヤ人でなくても良いでしょう。
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私の隣人とは誰のことですか(29節)、と質問をします。イエス様に定義をしてもらいたかったのだと思います。当時のイスラエルでは隣人は同胞イスラエルという一般的な理解がありました。そのような答えをイエス様がしてくれれば、それは守っていると答える準備をしていたのでしょう。
律法学者は隣人とそうでない人を分けていました。ユダヤ人は隣人だけど、サマリヤ人はそうではない。しかし、ユダヤ人同士本当に愛しているかとなると、祭司やレビ人のように、汚れとかそういう事を優先して、見て見ぬふりをする。
イエス様は「この3人の中でだれが強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と言いました。
律法学者は「誰が隣人か」と聞いたのに、イエス様は「誰が隣人になったと思うか」です。
ということは、隣人は誰か、探すとか定義するのではなく、なるものです。
隣人とは誰なのか、誰を愛したら良いのか、考えている時は隣人を愛することはできません。隣人になるかどうかが大切なのです。
隣人になるという思いで人と関わるか、
それともこの人は自分の隣人か、そうでないか、と考えて、
隣人とそうでない人との間に線引きをするような思いで人と関わるか、
全然違います。私たちはどちらでしょうか。
このサマリヤ人は、助けている時に途中でユダヤ人だとわかり、その手が止まることがあったでしょうか。
目の前に傷ついている人を見た時に、考える間も無いくらいに、その人をおもう気持ちがあった、かわいそうに思った、と思います。
「かわいそうに思った」ことを調べてみました。
この言葉はイエス様とか神様に限定されて用いられる言葉です。おそらく人間に用いられる場所はないと思います。内臓が引きちぎられるという意味です。
神様やイエス様が憐れんだ時に使われています。
既に、7章のナインのやもめに対して。そして今日の箇所。ルカ15章で放蕩息子の父親が息子に対して使われています。
他にも、イエスは多くの群衆を見て「可哀想に思った」とあります。
放蕩息子のたとえの父は神様ですし、その神様が痛みます。
他のたとえで借金を赦した王も、しもべが返せない負債に対して、可哀想に思うのも神様の赦しです。
ですから、今日もたとえですが、このサマリヤ人がかわいそうに思うのは、大きな意味があるでしょう。
この例えを話された方こそ、傷ついた人を見過ごせなかった人ではないでしょうか。
このサマリヤ人こそイエス様ではないでしょうか。
サマリヤ人がユダヤ人を助けるという、今までは考えもしなかった信じられないような恵みと赦しの新しい時代が私(イエス様)を通して始まったということではないでしょうか。
それが、先週触れた24節にある多くの預言者や王たちが見られなかったこと、聞けなかったことではないか。ずーと見たくても見られなかった、聞きたくても聞けなかったことを、あなたは見ているし、聞いている、直接私を見ているあなたたちは幸いだと言いました。
私(イエス様)が今ここにいることは新しい恵みの時代の幕開けです。
やはり、私たちが隣人になるというのは簡単な事ではありません。
その為には先ず、イエス様が私たちの隣人になってくださった喜びがあってこそです。
私たちが隣人になるという時に、先ず私たちの隣人になってくださった方を覚えましょう。
半殺しにされていたユダヤ人。私たちも罪の中に死んでいたものとエペソ書で言われます。
そういう所に、道の反対側から来てくれたサマリヤ人以上に、はるか遠い天から、この世界まで、来てくださったイエス様です。それはサマリヤ人とユダヤ人という民族の違いなど比べられないほどの淵を越えてきてくださいました。
さらには、2デナリという犠牲を払う程度のものではなく、イエス様は私たちに大きすぎる犠牲を払い、十字架にかかってくださいました。そしてその後もっと費用がかかったら、私が帰りに払いますという、これからも関わってくださる姿、私たちの歩みを天の国までの歩みを支えていてくれるお方です。
そういう隣人になってくださったお方を感じて、喜んでこそ、また私たちもイエス様の御声に従う歩みができるのではないでしょうか。
「行ってあなたも同じようにしなさい。」
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