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ヨハネ、揺れる [丸山師] [礼拝メッセージ]

ー音声1-
◆ ルカ7:18~23 より

 

今から500年前、1517年マルティン・ルターが宗教改革をしました。

ルターの功績は沢山ありますが、聖書を自国語に訳した事は大きいことでした。改革までは聖職者の説教のみでしか聖書に触れることがありませんでしたし、ラテン語で書かれていたのです。教会や学校、そして家庭で、より身近に読んでもらえるようにルターは聖書翻訳をしたのです。その甲斐あって人々にとって聖書の存在が大きく変わりました。

外国語で書かれた聖職者だけが扱う専門書ではなく、誰でも身近に読む事が出来る書物となりました。

牧師や神父の口を通してではなく、いつでも聖書を開く事により全ての人に神の恵みが注がれる喜びを感じ取る事が出来るようになったのもキリスト教の歴史の中で大きなことでした。

 

今日の箇所は久しぶりにヨハネが出てきました。ヨハネはイエス様の為の道を備えた人でした。

イエス様にバプテスマを授けて、その後ヘロデ王の罪を糾弾したことによって捕らえられたと記されています。

4章ぶりにあらわれたヨハネはマタイの並行記事から見ても、今もなお牢獄にとらえられているということがわかります。

 

歴史家のヨセフスという人によると、ヨハネがいた場所は死海の東マケルスという場所でした。岩山の中に穴を掘って作られた牢屋だったと言われます。死海よりも1000メートルも高い場所です。弟子が質問をしに来たりできるわけですから、面会などは比較的ゆるされていたのでしょう。牢に入れられてから、だいたい一年ほど経過しています。

 

3章のヨハネはイエス様の先駆者として歩んでいました。

イエス様の先駆けとしてその使命に生きた人ではなかったでしょうか。

イエス様は聖霊と火のバプテスマ、本当に罪をきよめることのできるお方であると信じていたわけです。

エリサベツのお腹にいる時から福音を聞いていて、それを喜んだヨハネ。

父であるザカリヤもヨハネに対して、主の前に先立ち、その道を備えると賛美します。

ヨハネはヘロデの妻とヘロデの娘によって殺されてしまいます。母の胎にいるときから、ずっと従っていたヨハネが最後にこのような問をするということを私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。

 

ヨハネの気持ちはここで揺らいでいるように思えます。ただ獄の中にいて、信仰を失っているわけではありません。失ってないからこそ、信仰が揺れ動いているのです。本当に最後の最後で信仰がなくなってしまったら、28節でイエス様がヨハネを評価する「女から生まれたものの中でヨハネよりすぐれた人はひとりもいません。」と言わないでしょう。

そういうヨハネでも完璧ではなく、私たちのような弱さがあり、動揺したのです。

人間的な弱さがあったのです。

 

イエス様の答えは「ヨハネに事実を告げなさい」です。

 ー音声2ー


 

ヨハネには大きな答えだったはずです。

それはイザヤ書の35章と61章にメシヤが到来した時の記述があるからです。

「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。その時、足のなえたものは鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。神である主の霊がわたしの上にある。主は私に油を注ぎ、貧しいものに良い知らせをつたえ。

 

イエス様は問いには答えませんが、ご自身が旧約聖書でずっと前から預言されてきたメシヤであることを肯定しています。旧約聖書を知っていたヨハネにはわかったはずです。

 

そして、「私につまずかないものは幸いです」と続けます。

 

つまずくという言葉、ある意味キリスト教世界の業界用語ですね。あまり普段つまずくという言葉は使わない気がします。自分に何かクリスチャンらしくないことをして人の信仰を動揺させてしまう、証にならない、そんな言葉があります。

他の箇所でもイエス様は言います。たとえば最後の晩餐の時に、あなたがたは皆わたしにつまずく。

そしてペテロがたとえ他のものがつまずいても、私はつまずかない。それまで信じていた人が信仰を捨ててしまうという意味でしょう。 遠藤周作の沈黙でも棄教すること、信仰を捨てることを転ぶと表現されています。転びキリシタンと言われたようです。

 

ヨハネは自分が思い描いていた救い主と現実のイエス様との姿にギャップがあった。

救い主であられる方がいる、でもイエス様は何をしているのだろうかというものです。

「悔い改めなさい、神の国は近づいた」という宣言のとおりに、権力者にも恐れることなくヘロデの罪をヨハネは追求しました。

でも自分は未だにその牢の中にいる。ヨハネは大変厳しい裁きのメッセージを伝えました。しかし、自分が宣言してきたような事は起こってないように思える。悪がはびこる世の中、ローマの支配、自分の今の状況。どうしてですか?そのような問いが起きます。

おいでになるはずの方はあなたですか?

ヨハネの気持ちは本当の救い主は誰なのかではなくて、イエス様、あなたは本当に「私の救い主なのですか?」ではないかと思うのです。

 

なんでこんな事があるのか、神様がもっとこうしてくださったら良いのに。

私たちも日々、問うことがあるでしょう。

そういうことが起こるのは、一人ひとりに神様像があるのだと思います。

私たちは気づいたら神様像を作ってしまうのだと思います。神様がどういう方であるか、一人ひとり全然違うと思います。違っていいと思います。ただそれが自分勝手な都合の良い神様像であるとよろしくないのです。それをされたら神様もちょっと待って、と困ってしまいます。

自分の思いに答えてくれないような事があり、つぶやくというのはおかしなことです。

 

ヨハネは3章の裁きのところで、斧はもう木の根元に置かれていると、すぐに起こるのだと言いました。でもヨハネからしたら、イエス様はゆっくりゆっくりガリラヤ地方をまわっているだけ。自分のしてきたことは何だったのだろうと思うのです。

 

ただイエス様のお考えはヨハネもそうですけど、他の弟子たちやユダヤ人の期待とは全然異なるものでした。ローマの支配からイスラエルを救ってくださる政治的なメシヤ、苦しみから開放してくださるお方、そういう誤解が多くありました。弟子たちもイエス様理解が違ったから、神の国の大臣にとか、誰が偉いかとか、十字架の予告をするときは、いやいやそんなはずではないというのです。

 

期待とは全然違ったイエス様、ただそのイエス様の歩もうとしている先は十字架への道でした。

全くぶれずに私たちの救いの為にと十字架に歩まれるお方です。

 

ヨハネは激しく揺れました。24節にある、風に揺れる葦のようにヨハネも揺れたかもしれません。でも弟子たちを通してイエス様の言葉を聞きました。

イエス様が確かに約束の預言者であり救い主であるということを弟子たちから聞いて、しっかりとした信仰を最後に持って、この地上の歩みを終えたのではないか、岩山よりも堅くしっかりとした信仰に立ったのではないか、と思います

 

ヨハネのように悩む私たちですが、自分勝手な自由な神様像を作って、勝手に喜んで、勝手に失望することがありませんように。私たちの救いの為に十字架を目指して歩まれたイエス様の姿を見ることができますように。

揺れるのが当然の私たちです。それだけクリスチャンの歩みは戸惑います。沢山揺れる中でも全くぶれないイエス様に結ぶつくことを日々経験させていただけるのです。

目標聖句の時に「船は揺れる、しかし沈まない」とある牧師の言葉を話しました。

動くものは当然揺れます。信仰もそうです。信仰が生きているから、動いているから揺れるのです。揺れることもなくなってしまったら駄目なのです。大いに揺れてください。でも、止まることが決してありませんようにと、私は言いたい。

そして揺れ動きながらも少しずつ、イエス様の正しい姿をしっかりと見ながら、

迷いながらも、少しずつ堅い信仰に立たせていただけるようにと願いましょう。


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