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お腹も心も満たされて [丸山師] [礼拝メッセージ]

◆ルカ9:10~17より
ー音声1-
5千人もの人々を満たしたという箇所です。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのみんなが記している奇跡物語は、福音書記者にとって、弟子たちにとって、記憶に残るものだったのでしょう。
イエス様に派遣された弟子たちが戻って報告をします。その弟子たちを休ませようとしてくださいます。が、群衆はイエス様に気づいて来ます。イエス様が神の国のことを話したり癒やしておられるのに、弟子は休むわけにいかないでしょう。
12節の弟子の口調が厳しいような、怒っているように思えてしまいます。が、イエス様が仰ることは弟子たちの思いとは違いました。
どう見ても足りていない状況で、どうしようもない状況でもイエス様ご自身に頼るように勧めています。
私たちがどうしようもないと思えるような厳しい状況になったときにどうするでしょうか。望みがどこにもないようなときに、それでも主に信頼していくことができるでしょうか。
並行箇所のヨハネではアンデレが5つのパンと二匹の魚をイエス様に指し出します。こんなに大勢の人の前ではそれが何になりましょう、と言います。このように私たちの力のなさをなげくのではないでしょうか。
環境や自分の能力の不足などばかり見てしまいます。しかし、イエス様が祝福して五千人を満たしたように、信仰をもって、イエス様に信頼して歩んでいく時に、小さなものでも豊かに用いてくださいます。また、厳しい状況でもイエス様によって乗り越えさせていただくこともあるでしょう。
少し前の長血の女とヤイロの信仰も、小さな信仰をも良しとしてくださったイエス様でした。
先週は愛子さんの召天記念会で、素晴らしいときでした。癌の宣告をされてから愛子さんは自分の人生を思い、何が自分にできるのか問うてきました。その中で、葬儀の席でぜひイエス様のことを、まだイエス様を信じてない人に知ってほしいと。
その思いを持つことができたのは癌の宣告から亡くなるまでですから、短い時間だったでしょう。そういう気持ちもイエス様が聞きあげてくださったのでしょう。葬儀はもちろん、イエス様の証ができたことでしょう。
召天記念会では、私も含めて、愛子さんを知らない人もいましたが、私たちは神様の素晴らしさを、愛子さんを通して感じます。
ひとりのクリスチャンの小さいような思いも、大きく用いて下さいました。
今日の箇所をそのように感じます。
裂いてもさ裂いても、なくなることないパン。さらには人々を満腹して、かつ12のかごに余るくらいですから、私たちに与えられる祝福が尽きることなく、ずっと注がれる、弟子たちも群衆も不思議だったでしょう。が、それ以上に喜びが溢れていたでしょう。
子どもたちの集会で、自分の大切な人にラブレターを書いてもらいました。
ちょっと恥ずかしがりながらも、子どももスタッフもみんなで書いてそれを共有しました。
聖書も私たちに対する神様の愛が書かれているラブレターみたいです。
ケーキ&カフェでも大人の方にしていただいたら、それも素晴らしい時間でした。亡くなった方に書いた方、お子さんにあてたもの、涙ながら思いを語る方の、自分だけが抱えていると思っているような思いもイエス様はご存じです。
嵐の箇所の時に話したことですが、本当に、神様が共にいてくださいますようにではなく、神様が共にいることに皆さんが気づくことができますようにと祈りました。
ー音声2-
24日に、私の神学校の時にお世話になった先生、今は学長をしています。その先生が心臓発作で61歳でなくなったという事を聞きました。特に病気を持っていたわけではないと思いますが、アメリカの神学校や教会に出張中のことで、日曜日にタクシーで教会に向かっている時に発作を起こしたそうです。病院へ行って、一度容態は回復したようですが、奥様が急遽アメリカに行って、でも到着前に主のもとに帰られたという話でした。
先生ご夫妻は私が18歳の時からお世話になっている方で、先生がされている祈祷会に参加していました。私にとっての祈りの父母みたいな人です。先生がしている祈りの言葉をいまでも真似ているところがあります。神様が共にいることに気づくことができますようにという祈りを教えてくれたのもこの先生ご夫妻です。まだまだ実感はわきませんが、私にとって嵐のようなことです。
嵐は私だけではありません。ここ最近は本当に皆さんの大変な思いを聞くことが多いです。
10月は神無月といいます。神がいない月ということです。私たちの信じる神様は本当にずっと共にいてくださる方だから、いなくなってしまうなんてありえません。でも、神様が共にいないのではないかと思ってしまうような時があります。
そんな中でも、それでもひたすら神様により頼むこと、私たちを守ってくださるお方がいることを覚えたいです。
今日の箇所は祝福も一つのテーマだと思うのですが、私たちを養ってくださる、大切にして守ってくださるイエス様の姿も大事です。
マルコの福音書では「彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐み、いろいろと教え始められた。」と、慰めの言葉が書いてあります。
羊は弱いです。他の動物のように武器と言えるモノを持っていません。中にはツノをもつ羊もいますが、敵を攻撃するための牙や、爪や足の速さと言った武器と言えるようなものは何もありません。
ですから、敵に遭遇した場合、多くの羊はただ食べられておしまい、ということになります。
私たち人間も、武器と言えるモノは備わっていないですし、「自分は強い」と思っている人であっても、試練とかストレスが襲ってきたら、精神的にも人間はそれほど強くないと思います。
羊は群れを作って生活し、群れから引き離されると大きなストレスを受けることから、一人では生きていくことの出来ない人間や人間社会と似ています。
羊は弱く小さな迷いやすい存在ですから、私たちにも守ってくれる、助けてくれる、導いてくれるお方が必要なのです。
旧約聖書の詩篇23は羊を飼う仕事をしていたダビデが書いた詩です。
イエスキリストもご自分の事を羊飼いで、私たち人間は羊であるという事を言います。
主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。たとい死の陰の谷を歩くことがあっても私はわざわいをおそれません、
あなたがた私ととともにおられますから。まことに私の命の日の限りいつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう。私はいつまでも主の家に住まいましょう。
自分が健やかで、自分には人生設計がしっかりあって、自分は何事かを成すために生まれて来たのだと、自分に自信を持てる時は良いでしょう。しかし反対に、自分の弱さを知っていて、自分は一人では生きられなくて、誰かからの助けが必要で、確かな方に自分を導いてほしいと願う人にとっては、この詩篇は、この心に語りかけるものを持っています。
羊飼いであり、養い主である、イエス様のお姿が書かれています。
最初はイエス様の満たしを考えていたので、お腹も心も満たされてという説教題にしました。しかし、準備して、思い巡らしていると、私たちの状況も考えて、羊飼いであるイエス様という事が語られている気がします。
この後の賛美もイエス様を思って皆さんで共に賛美しましょう。
「いつくしみ深き」です。what a friend we have in jesus
いつくしみ深いイエス様が私たちの弱さを知って憐れんでくださる、
今日の箇所です。悩み悲しみに沈んでしまう時も祈りにこたえて慰めてくださいます。
いつくしみ深いイエス様が十字架と復活によって罪を取り除いてくださる。
憂いも取り除いてくださる。だから心の嘆きを隠さないでイエス様のもとに
もっていく必要があります。などかはおろさぬおえる重荷を、どうしてあなたはその抱えている重荷を私の前におろさないのか、と素晴らしい歌詞です。
来月は11月です。一ヶ月すればイエス様の誕生を待ち望むアドベントに入ります。
私たちがイエス様の事を知れば知るほどクリスマスがどれほど素晴らしい事なのかがわかるでしょう。これからも私たちがイエス様の素晴らしさを心から感じることができますように。悩みはつきずに、大変な事も多いクリスチャンの生活ですが、羊飼いである方がいる喜びは何ものにも代えがたいことですから、全てを委ねて歩みましょう。

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