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山の上から山の下へ [丸山師] [礼拝メッセージ]

◆ルカ9:37~45より
ー音声1-
山から下りてきた所の出来事です。
群衆の中からイエス様に一人息子を助けて欲しいと父親が頼みに来ます。
9章1節では、イエス様は弟子たちに悪霊を追い出し病気を直すための力と権威をお授けになっていました。
しかし、この時、山の下にいた9人の弟子たちには悪霊を追い出せなかったのです。
なぜでしょうか?
今はもうイエス様から与えられた力と権威がなくなってしまったのか。またはイエス様の力は、イエス様が山の上のような遠い所に行くと及ばなくなってしまうのでしょうか。
大事な事を語っていると思います。聖書の読み方にも通じる所があると思います。
福音書は、4人の著者がそれぞれ同じ出来事をそれぞれの視点で書いている並行箇所があります。福音書を読む時、ぜひ並行箇所を読んでください。話の前後の確認ができたり、わからないことがわかるような場合もあります。
聖書理解が深まると思います。 
今日の所で、マタイとマルコの福音書の並行箇所では、弟子たちがイエス様にストレートに尋ねています。なぜわたしたちには悪霊を追い出せなかったのですか?と。
イエス様は次のように答えます。
マタイ:あなたがたの信仰が薄いから、
マルコ:この種のものは祈りによらなければ何によっても追い出せるものではありません。
このように見ると、弟子たちに必要だった事がわかります。
悪霊を追い出し救ってくださる事は神様ご自身の力であるという信仰と神様のみわざを求める祈りが必要だったのです。
それは、働いてくださるのは100%神様であって、自分は神様によって用いられているという自覚です。
弟子たちも最初はそういう思いだったでしょう。
ところがそれが続くうちに気持ちが変わってしまう。イエス様からの権威と力は自分から出ているような思いになったり、自分の力と祈りで悪霊を追い出せているのではないか、というような。
46節の「自分たちの中で誰が一番偉いかという議論が持ち上がった」の箇所からもそう思います。人間的な思いです。
イエス様の12弟子ということで、イエス様への信頼とか祈りとかなくなり、悪霊を追い出せなくなったと考えます。
他の箇所では、議論になったり言い合ったりして、追い出せなかったから祈った、とは書いてありません。
弟子たちの変化は私たちも通りがちな変化ではないでしょうか。
クリスチャンになったばかりの頃と、今と同じような気持ちでいるでしょうか。
時間が経つにつれて、イエス様への信頼や祈りよりも、今までの信仰生活、生き方、過去を振り返ること、人生経験などもあいまって、最初のイエス様にすがるという純粋な気持ちがなくなっていないか。
     
祈りは神様によって助けていただかなければ何もできないと知ることが大事です。
祈りの原動力は自分の無力さと神への信頼から来るものです。
祈り会の時でも、祈りの課題を言った後に直ぐに祈れば良いのでしょうが、コメントというか解決策のようなことを話しやすいです。
祈る気持ち、すがる思いを失わず増し加わるようにと、この弟子の姿から教えられます。
ー音声2-
山の下での弟子たちの姿は、自分たちに頼って、結果無力なものとなる情けないものでした。山の上でのイエス様の素晴らしい栄光とその対比が鮮やかに描かれています。
 
山の上と山の下、これは私たちの信仰生活でもありましょう。
礼拝で主の素晴らしさを味わい、恵みと平安に満たされる。主の臨在を感じています。
が、そこから自分の遣わされる場所へ行くと、自分の信仰者としての歩みの貧しさを感じたり、弟子たちのようにイエス様に頼らないで生きる事もある。そこを行ったり来たりです。
 
41節でイエス様は厳しい言葉を言います。
「ああ、不信仰な曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいてあなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」
 
聖書には神様との関係が曲がっている人が多く描かれています。
よく旧約聖書で、“うなじのこわい民”という言い方をします。首が簡単には動かない、なかなか首を縦にふれない。曲がっている、まっすぐでないという事です。
 
イエス様のお言葉は怒っているような、もう我慢の限界のような気がします。
我慢するという言葉は支えるとか持ち運ぶという意味でもあります。持ち運ぶためには運ぶべきものの下に入る、「私はいつまであなたがたを担い続けることができるか」と主は言われる。この持ち運ぶとか支えるという言葉がイザヤ書で描かれています。
 
「胎内にいる時から担われており生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとってもわたしは同じようにする。あながたがしらがになってもわたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお私は運ぼう。私は背負って救い出そう。」イザヤ46:3~4
他の訳では「わたしは造ったゆえに必ず負う」とも書いてあります。
このような言葉も我慢するという言葉の背景にあります。
私たちが老いる時まで、白髪になるまで支えてくださる。それは私があなたを造った責任があって、その責任を最後まで負ってくださる。
イエス様は不信仰な曲がった世の中に弟子たちがいることをご覧になりつつも自分に言い聞かせているのではないでしょうか。
曲がったものがまっすぐになるまで担う、と自らに言い聞かせていると読めます。
 
本当にイエス様が弟子たちを捨てられたのなら、あなたの子をここに連れて来なさいとは言わないでしょう。イエス様は悪霊を追い出して癒やしてくださるのです。
そのような時に、イエス様は弟子たちに44、45節、語りかけます。
二度目の受難の予告が語られますが、その意味は弟子たちにはわかりませんでした。
彼らから隠されていました。
イエス様が人々の手に渡される、十字架で殺される、私たちの罪を背負い、その身代わりの死によって罪が赦されて、私たちに新たな生命が与えられる。
恵みによって永遠の命を与えられるという救いのみわざ。それが隠されたことでした。
 
隠されたこと、それは私たちの感覚とか常識によって理解できないものといって良いでしょう。
すぐにはわからないもの。私たちが理解して、わかることができるのは神様が示してくださることによってのみわかる。それくらい十字架と復活による罪の贖いというのは理解が難しい事です。
弟子たちも理解しませんでした。なぜ神が遣わされた救い主が人々の手に渡されるのか。ユダヤの民の上に立ち、他国の支配から解放しようとする方がどうして逆にユダヤの民に捕らえられ、さらには殺されるのか、全くわからないものでした。
不十分な理解であっても完全にわからなくても、イエス様はこの言葉をしっかりと耳に入れておきなさいと言うことにとどめて、弟子たちを担ってくださるのです。
 
先ほども言いましたが、礼拝でイエス様の事を思って、喜びつつも、一歩現実の世界の私たちはイエス様に頼ることがなく、自分の力で歩んでしまうような者です。そのギャップに悩み苦しんだりします。
あまりにもまっすぐではない、曲がってしまっている私たちをイエス様は嘆いています。
それでもイエス様は私たちをずっと背負ってくださる方、支えてくださる方、持ち運んでくださる方です。イエス様の十字架は、まさにご自身がこの罪の世界を担ってくださる、救ってくださるということです。
 
来週からイエス様がこの世界に来てくださったことを覚える時、アドベントに入ります。どうかこの時イエス様の語られる言葉をしっかりと耳に入れておくことができますように。天のお父様の「彼の言うことを聞きなさい」ということも覚えます。
私たちはイエス様に背負われて、イエス様によって生かされているということを
今朝、またアドベントの時、クリスマスの時に心に受け止めて歩んでいきましょう。
 
 

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