SSブログ
教会写真-1.jpg

ザカリヤの沈黙 [丸山師] [礼拝メッセージ]

◆ルカ1:5~25より
ー音声1-
ザカリヤはエルサレムの神殿に仕える祭司の仕事をしていました。
祭司は2万人位いたと本に書いてあります。その祭司が24の組に分けられていて、ザカリヤの属する所がアビヤの組(5節)でした。
年に2回、そのつとめが一つの組に任せられますが、その組には何百人もいるから、
神殿に入って香をたくというのは一生に一度もしたことがないという祭司も沢山いました。祭司にとって、これは光栄なこと、晴れ舞台です。
聖書で、くじを引くのは他の箇所にもありますが、神のみこころを問う方法として用いられたので、神様が選んでくださったという喜びはあったでしょう。
ザカリヤが香を焚くと神様からの使者、天使が現れます。ザカリヤは不安を覚え恐怖におそわれました。
彼はずっと祭司として神の前に出ることをしていました。神と面と面を合わせるということを待っていたはずなのに、実際の思いは喜びではなく恐れでした。
待ち望むという気持ちはなかったのでしょうか。ザカリヤの気持ちは偽りだったのでしょうか。
そんなことはないと思います。
6節には妻と二人神の御前に正しく、主の全ての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた、とあります。
しっかり神の前に歩んでいたからこそ、自分が神の前に立つという事の恐れを知っていたでしょう。知らなかったら恐れなかったでしょう。汚れた者であるから、神の聖さを見せられたのでしょう。
イザヤも召命の時に、神に見えた時に言いました「ああ、私はもうだめだ、私はくちびるの汚れた者でくちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王をこの目で見たのだから。」
本当の信仰者は神のみ前に出ることの恐ろしさを知っているのです。
「主を恐れることは知識の初め」と言うみ言葉の通りです。
神様の属性は愛だけではありません。聖なるお方です。礼拝という事の姿勢も教えられます。神の前に恐れを持って出る、ということを求められているでしょう。
恐れを持っているザカリヤに御使いは(13節)語りかけます。
恐れという感情に驚きという感情が加わったことでしょう。
7節ではエリサベツは不妊の女だったので彼らには子がなく二人とももう年を取っていた、とあるからです。
ザカリヤは香をたくクジが当たった時に、神様の祝福をいただいたと、本当に喜び感謝したと思います。神様はさらに驚くべき祝福を与えます。
このような所を読むと神様の恵みはどのようなものか、どのように与えられるのか、私たちに問われているような思いがします。
神様の恵みは、自分の経験や感覚、常識などでとらえていないでしょうか。
もう十分ですと、控えめで謙虚に、私たちは神様の恵みとか与えられるものを自分の小さな所に押し込めていないでしょうか。
 
私が必ず礼拝前に読むイザヤ書55には
私の思いはあなたの思いと異なりわたしの道はあなたがたの道と異なるからだ。主のみつげ 天が地よりも高いように私の道はあなたがたの道よりも高く、私の思いは、あなたがたの思いよりも高い。
 
私たちの小さな浅い考えで、いと高き神様の思いは量れません。
30センチの定規で地球の長さは測れません。
 
エリヤ(17節)は旧約の預言者です。マラキ書の3章の引用です。
主の裁きの前にエリヤを送り、人々の心を神様に向かわせる。神様が怒りをもって人々を破滅させることのないように人々を整える。その為に遣わされるエリヤの働きをヨハネがするという事です。イスラエルの多くの子らを立ち返らせる、神の民であるのに神から離れて背を向けている民を悔い改めさせる、向きを変えさせてイエス様の誕生に備える働きをする、と御使いは告げます。
ー音声2-
ザカリヤに、あまりにも驚くことが語られました。
その反応が18節です。
ありえないことをどうして信じられるか、というものでした。祈って願っていたことであるけれど、祝福の喜ばしい知らせを信じることが出来ませんでした。
最近子供のお話でも聞きました。
アブラハムもサラもザカリヤとエリサベツ以上に年を重ねていて、子供が与えられるという言葉を聞いた時に心のうちで笑った、とありました。
ザカリヤは笑わなかったけれど、神の御言葉を正面から聞かない、向き合わないということはアブラハムと同じです。神の方を向かなかった。
 
祭司のザカリヤが神の前に向いていない、神様の救いの恵みを受け取る準備をしていない。
これこそヨハネを遣わして、向きをかえるように神様が御子を迎える準備をさせる理由です。
悔い改める、考えを変えるという意味です。そのためにヨハネが遣わされた。
ヨハネの父ザカリヤも同じように、向きをしっかりと神様の方に変える必要がありました。私たちが御言葉に向かう姿勢、態度、問われないでしょうか。
信じないザカリヤに与えられたのは言葉を取られるということでした。
それはヨハネが生まれるまで10ヶ月続くものでした。
喋れないだけではありません。再来週くらいの聖書箇所になりますが、62節をみると聞くという事もできなくなったように書かれています。
ザカリヤの長い沈黙が始まります。
この沈黙は何を意味するのでしょうか。
信じなかったことの懲らしめでしょうか。
辛いこと、苦難であったはずです。この期間をザカリヤはどのように過ごしたのでしょうか。
ザカリヤの為に必要な主のご配慮であり、裁きではないと思います。
ザカリヤの向きを神様にしっかりと向かわせるために、考えを変えるためのもので、ザカリヤに必要な事だったと思います。
喋ること、聞く事、一切を取り除かれたザカリヤ。厳しくも恵みであったと信じたい。
人間の言葉を全て奪われたザカリヤが求められたことは神の言葉を聞くということです。
この時、神の言葉を疑ったこと、不信仰を悔い改め、向きを神様の方に変えて御言葉の実現を待ち望む信仰を養われたのではないでしょうか。エリサベツも同じだと思います。
ヨハネを身ごもる中で、夫のザカリヤと話せなくなる中で、同じように沈黙したと思います。五ヶ月の間引きこもったということは、主の前に黙する時だったのです。
静けさも音楽という言葉を聞いたことがありますが、そういう時だから聞ける神の言葉はあると思います。
 
何かをゆっくり思い巡らしたい時、必要以上に大きな音、声は苦手です。
沈黙するという時が私たちはあるでしょうか。
以前所属していた教会の修養会の会場で那須にあるカトリックの修道院をお借りしたことがありました。山奥の静かな場所で良い静まりの時を持ちました。千葉にも茂原の方にありますし、そういう所をお借りして、静寂ということを体験することも良いかもしれません。
プロテスタントではカトリックのように沈黙をそこまで意識していないかもしれません。プロテスタントでも教会によって、礼拝の中で特別に一定の時間沈黙の時を持っている教会もあるそうです。
そのようなプログラムを設けなくても礼拝の本質は沈黙です。それは礼拝では自分や他者の言葉、全ての人間の言葉を聞くことを止めて、ただひたすら神の言葉を聞くときだからです。
イエス様の栄光の姿の時に語られた神の言葉を思い出します。
「彼の言葉を聞きなさい。」
沈黙して神の言葉に聞く。そうして私たちはただ神と向かい合うことに導かれる。
 
私たちを惑わすような声や言葉があまりにも溢れている中に生きている私たちです。
私たちを本当に助けて救うのは神の言葉の福音のみ。その福音を聞くために私たちは沈黙を必要とします。
時に神様のか細いような声が語られているのに、自分の声と他者の声で聞き逃がしていないでしょうか。
ザカリヤの沈黙はイエス様の受胎の出来事の前にあります。
神が人となられたという出来事が私たちにとって何を意味するのか。
それは驚くべき事で言葉を失うようなことです。
神の驚くべき救いのみわざの前に私たちは黙するほかないのです。
「静まって私こそ主であることを知れ。」
 
私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
神こそ我が岩、わが救い、わがやぐら。私は決してゆるがされない。
詩篇62篇

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。