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マリヤの賛歌 [丸山師] [礼拝メッセージ]

◆ルカ1:39~56より
ー音声1-
今日の箇所はマグニフィカートと伝統的に呼ばれる46節からのマリヤの賛歌です。ラテン語で主をあがめるという意味です。
 
受胎告知後のマリヤは、不妊の女であったエリサベツが今は6か月ということを御使いから教えられて、エリサベツのもとへ急ぎます。
ザカリヤ(エリサベツ)の家、ユダの山地はエンカレムというエルサレム郊外の街だと言われています。そこにはマリヤの訪問教会と呼ばれる場所、洗礼者ヨハネの誕生教会とちなんだものがあります。
信憑性を疑う人もいますが、ザカリヤはエルサレム神殿に仕える祭司ですから、それほどエルサレムから離れた所には住んでいないでしょう。ナザレとエルサレムは100キロ位の距離です。中学生くらいの女の子が、歩きという手段だけで行くわけです。
マリヤが与えられた使命、それは全人類の救いに大きく関わる驚くべきことでした。
マリヤは、親類であるエリサベツが不妊だということも知っていたでしょう。ですから、エリサベツの懐妊を御使いから告げられたのは大きいことだったでしょう。
が、彼女にも驚くべき神様の御業がなされて、マリヤがこれから体験していくことを先に体験している先輩です。そのような思いを持っている人に会いたいというのは当然の事でしょう。
 
ここに私たちが学ぶべき姿があるでしょう。
御使いの知らせを聞いて、急いで見に行こうとするという姿勢です。
ルカ2章に出てくる羊飼いも同じです。
 
そして急いで行ってマリヤとヨセフと飼い葉桶に寝ておられるみどりごとを捜しあてた。2:16
 
急いで行く羊飼いはマリヤの姿と重なります。
いつか行こうではなく、それを聞けたから十分です、というものではありません。神様が示した恵みを見る、積極的な信仰を教えられます。
御言葉が語られ、すぐに私たちの行動にあらわれたということがあるでしょうか。語られた御言葉に「いい話を聞けたなー」で終わることがないように。もっともっと聖書の話を聞きたいということ、その姿勢は素晴らしい事でありましょう。
 
しかし、聖書の御言葉を聞くのは恵みである一方、なかなか大変な事だと思います。語られた事に対して、私たちはどれだけ動いているでしょうか。動くことがたまっていないでしょうか。動く間もなく次の日曜日がやって来ていないでしょうか。
日曜日以外にも祈り会に来ている方、集会に来られる方、また日々の聖書を読む時間もあります。
聖書の言葉を聞くだけで終わらないように、ということです。
御言葉を聞いて行う人に、とイエス様も言われます。ただ聞くだけではダメです、とヤコブ書にもあります。
黙してただ神の言葉を聞くというススメをした一方で、さらに行うように!と聖書は真剣に読めば読むほど大変なものです。求められている事は厳しいことだと思います。
 
急いで行くといっても人それぞれ違います。積極的に求めていくという信仰の姿勢は一緒だと思います。
神様の約束を信じて待つという信仰も大切です。旧約の民はそうでした。
しかし、私たちの側で動ける事があるならそうしましょうということ。そこに私たちの思いを超えた主の豊かな恵みが示されるのではないかと思います。
 
マリヤはエリサベツの元に行きました。56節には三ヶ月居たとあります。急いで行った後はだいぶゆっくり滞在していたようです。妊娠6か月のエリサベツは、それから3ヶ月ですから、マリヤは実際にヨハネの誕生に立ち会ったのでしょうか。
そしてふたりとも具体的な年齢は記されていませんが、マリヤはまだ中学生位でエリサベツは老年という相当な差があります。この滞在は単なる年の離れた親戚の家にいるものではないと思います。
ー音声2-
マリヤとエリサベツの対面と同時にヨハネとイエス様の出会いでもありました。
マリヤが挨拶をするとエリサベツの胎内の子が喜び踊った。マリヤこそヨハネが道備えをする救い主であるということを確信したのでしょう。
この出会いで既にヨハネとイエス様の関係をあらわしています。
エリサベツはエルサレム神殿に仕える祭司ザカリヤの妻で年配の人です。
一方マリヤはガリラヤのナザレの普通の娘。人間的に、また当時の社会的な面からみれば、敬意を持たれるのはエリサベツです。
が、「祝福された方」と賛美し、「私の主の母」と敬意を払うのは、ヨハネとイエス様の関係によることです。ヨハネはあくまでもイエス様の道を備える人でした。
マリヤは御使いから受けた言葉、そして今エリサベツから祝福された方という言葉を聞きました。そういう喜びがマリヤの賛歌になっていきます。
 
マリヤの、自分にこんなに良いことがあった、という個人的なものではありません。
マリヤは普通のどこにでもいる女の子でした。マリア様と呼ばれる特別な人ではないのです。
神に選ばれ用いられるのに相応しい特別な事が彼女の中にあったわけではありません。
先週も話しましたが、力ある、何でもできる全能の力を持つ神様が、人類の救いに注いでくださった。そのような神様の示した御心は51~53節。
世の常識、価値観、評価、優劣など、全部ひっくり返してしまうほどの神の救いの全能の業が、マリヤに宿ったイエス様によって実現していくのです。マリヤの喜び、幸いはこのように主なる神様がご自分の民を救うという、その業に用いられるという喜びであり、幸いです。
 
幸いなのはマリヤだけなのでしょうか。そうではありません。マリヤは自分に与えられた幸いが、これからも神を信じて生きる人々に与えられることを語っています。マリヤに招かれているといってもいいかもしれません。
 
50節:神を信じて従う人々に及ぶということです。
信仰者はみな幸いです。
マリヤの事がさいわいな人として記憶されるというだけでなく、これからも幸いな人があらわれる。私たちも幸いです。その私たちが受けている幸いを、喜びに最初に預かった人として私(マリヤ)を思い起こすでしょう、という意味です。ですから、マリヤと共に幸いなものとなる、私たちも賛歌マグニフィカートを歌うのです。
私たちが今この場にいることは神様によって招かれています。神様が呼んでくださらなければここにいることはありえません。
この選びは私たちが相応しいからではなく、神様の一方的なあわれみです。
 
神様の選びによってエリサベツとマリヤに与えられている喜び、幸いを共有したことに目を留めましょう。
 
マリヤの滞在が三ヶ月とは長いと思いましたが、本当に必要な時間で、沢山の事を二人が黙想する時だったのではないかと感じます。幸いな二人。特にマリヤにとって必要な時だったのでしょう。エリサベツは色々話した事でしょう。自分が不妊で苦しんだたこと、が、老年になって神様が与えてくれた喜び。単に子どもが与えられたというだけでなく、神に選ばれた子、救い主のために用いられるという喜びです。
 
ただそれだけではないでしょう。既に御使いから与えられている使命を考えると与えられた子どもを神様にお返しするということもわかっていたでしょう。実際にヨハネは家を離れて荒野に住んで悔い改めを迫る人になりました。その為にヘロデに捕らえられ、殉教していきます。
エリサベツはどこまでわかっていたかわかりませんが、覚悟があったと思います。祝福と苦しみという思いです。それはマリヤも一緒で、神様に選ばれて、特別な使命を与えられた子は大きな幸いと、苦しみを受けることも語りました。
が、それでも御業のために用いられることは大きな喜びだと語ったでしょう。そんな三ヶ月だったと思います。エリサベツが必要な事をマリヤに伝えた。
ヨハネがイエス様の道を備えたように、エリサベツも自分の事を話して、マリヤが幸いな人として生きるための備えをした。信仰が継承されたといっていいでしょう。教会のようです。
先に選ばれた者、信仰を与えられた者が新たに選ばれた人々に自分に与えられている恵みを伝えるのです。週報に記載しましたが、来週の礼拝で洗礼式を行います。素晴らしいことです。
先に選ばれた私たちが、恵みや喜びを伝えただけです。神様がそれを喜んでくださり、よしとしてくださったのです。
 
もちろん、神に選ばれ信仰者として生きることは簡単ではなく苦しみを伴うものです。
マリヤの賛歌のように、世の価値観をひっくり返すような神の支配を信じて、この世とは全く違う価値観に生きることですから、理解されない事も多くあるでしょう。
そういう苦しみも含めて、その全てが神様から与えられている、幸いであること、イエスキリストを信じる信仰によって本当に幸いな人として生きることができることを教会は証し伝えていくのです。

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