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主の祈り2 丸山師 [礼拝メッセージ]

◆ルカ11:1~4より
ー音声1-
ー音声2-
まず、神の名前が聖とされますように、と祈る順序は大切です。
神の恵みの支配が来ますように、と祈ってから私たちの必要の為に祈ります。
後半にある私たちの必要の祈りは、前半の神の栄光を第一にしながら祈り求めていくことです。
逆であったら、人間の事柄を第一とし、神様を人間の都合の為に利用しようとする罪に陥ります。
主の祈りをするというのは、神様と人間の間の秩序を確認できます。祈るごとに整えられていきます。
3節 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください
一つ目は食べ物に関する祈りを、イエス様は教えています。
飽食の国にいる私たちです。どれほど真剣に祈れるでしょうか。
コンビニやスーパー、レストランのどんな食物も、神様が自然を支配し天候を与えてくださり、神様が私たちに届けてくださっています。
私たちは、自分が自分を食べさせていると考えるのではなく、神様が私に食べさせてくださっていると捉えるべきです。一つ一つ神様の守りと導きがあります。
今日私たちを養ってくださる神様は明日もまた守り養ってくださる、という信頼に立ち神様に従っていくべきです。
「日ごとの」は、一度に全部を求める祈りではなく、一日一日に必要な分を求める祈りです。つまり、ぜいたくを求めるのではありません。が、神様は最低限しかくださらないというものでもありません。
私たちは欲張ったり不満を述べず、神様がその日その日にお与えくださるものに満足して生きる、ということです。
それは、私が願っているより少ない量かもしれません。また、他の人の方が多く与えられているのを見るかもしれません。
神様は深く素晴らしいご計画を持って、今日私に与えてくださっていると思います。
明日以降の生活は明日なのです。明日、神の新しい恵みがあるのです。
今日、神様がくださるものを感謝して受け、満足して生きるのです。
4節 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
二つ目は、霊的な必要に関する祈りです。
大事なのは、すでにイエス様による罪の赦しを受けている人が、更に罪の赦しを求て祈ることです。
「父よ」と呼び掛けているのは、すでにキリストにあって罪を赦され神の子どもとされた人です。キリストにあって根本的な罪の赦しを得ている人も、地上で日々罪を犯します。罪は神様との関係を妨げます。そのまま神様に近づけません。
しかし、そんな私たちはこの祈りを通し、新しく罪の赦しを受けることが出来ます。
が、この祈りの特徴は、私も私に負い目のある人をみな赦します、という私のあり方と一緒になっています。神から赦しを受けている人は、他の人を同じように赦す人でなければならない、ということです。
マタイの一万タラントをゆるされた話を思い出します。
自分がどれほど多く神に赦されているか知ったら、他の人が自分にしたことを赦さないでいる、ということはありません。
神様が自分にしてくださったことの大きさがわかれば、私たちは他の人に対して何かを主張しようとする心は消えるはずです。
むしろ、私たちの心を支配するのは、神様が私にしてくださったように、私も他の人を赦そうとする思いでしょう。
そのように生きている人が、なおさら自分の罪が赦されることを確信を持って願い出るのが、この祈りです。
4節 私たちを試みに会わせないでください。
三つ目は、試み、テストです。
テストは、進み具合や学んだことの確認が明らかになるという良い目的があります。
次に進む準備が出来ているか調べられます。神様もこのような意味でのテスト、試練を私たちに与えると聖書は語っています。
神様は必要な試みを私たちに与えます。しかし、だからと言って、どんな試みも来い!という態度ではいけないということです。むしろ、自分の弱さを自覚しましょう。
願わくは試みに会わせないでください、その試みが避けられないのであれば、できるだけ小さなものにしてください、と祈るべきなのです。
試みにおいてはサタンも喜んで同時に働きます。サタンは誘惑の機会とし、私たちを正しい道から引きずり降ろそうと活動しています。
私たちはこの祈りを祈って警戒し、戦いに必要な備えをしなければなりません。
神様が良い目的を持って試練を与えてくださると受け取りつつ、耐えられないような試練に会わせないでくださいと祈る、この祈りは難しいと思います。
神の全能の御手、最善の御手にお委ねして歩む私たちは幸いです。
「主の祈り」はイエス様が祈られたのではなく、イエス様が弟子に教えてくれた祈りです。
イエス様がもたらしてくださった福音を凝縮しているからだと言う人がいます。
なぜ私たちが父なる神様に、日々の糧や罪の赦しを願い恵みを頂くことができるのでしょうか。試みに会わせないでと祈り、神様の全能の御手に安らうことができるのでしょうか。
それは、イエス様が地上に来てくださって、私たちを大いなる恵みの中に入れてくださったからです。
イエス様は十字架に至る生涯をもって、私たちの罪の代価を払い、私たちに神の子どもという特権を与えてくださいました。
このイエス様の存在とお働きなくしては、いくらこの祈りを口で唱えることができても、それはおかしなものです。
イエス様が来てくださったから、十字架と復活に基づく福音を私たちにくださったから、私たちはこの祈りを祈れます。
この祈りによって、ここに示されている祝福にあずかることができます。
天の父なる神様と呼べる幸いを改めて思いましょう。

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