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しつこい祈り? [丸山師]

◆ルカ11:5~13より

求めなさい、捜しなさい、たたきなさい。

よく知られている有名なイエス様の言葉です。

あきらめないで努力すれば必ず道は開かれる、という様な意味の言葉として

紹介されたりします。

が、イエス様はここで体育会系のような根性とガッツを言いたいのではないでしょう。

あきらめないで、というと自分の努力に目を向けている言葉になりますが、イエス様が目を向けさせようとしているのは、天の父なる神様です。

人間の業に目を向けさせたものではありません。

 

真夜中に友人がたずねて来る話です。

中近東の昼間は厳しい暑さや熱風があり、夜に旅をするということが普通のようでした。

さらに旅人をもてなすということは当然なすべきことでした。

弟子たちもイエス様も家に滞在していました。旅行者はいつでも、誰の家でも訪ねて、援助を求める事ができたのです。

真夜中に来た友人が求めるというたとえの後、9節以下でさらに「求めなさい」とあります。

最初のたとえも、たとえの後の「求めなさい」も祈りについての教えです。

このたとえは、祈り続けるとか、粘り強く祈るとか、よく言われる箇所です。

しかし、どうでしょうか。

この話が祈りについてのたとえであるなら、夜中に起こされのは神様になります。そして、祈りを聞いてくださったのは友達だからではなく愛によってではなく、しつこく頼んだからだと思います。

私たちが神様の迷惑とか事情とかまったく考えずに、祈り続けることによって、

そのしつこい祈りによってもう神様が根負けして、これ以上迷惑をかけられたくないから仕方なく聞く、となりますが、神様と私たちはこんな関係なのでしょうか。

 

また、求めるものは受けて、捜したら見つけて、門をたたくとひらかれる、と本当に私たちは信じているでしょうか。本当に本当に信じているでしょうか。 

私たちは祈っても与えられない、かなえられないことがあります。

その2つの問いを11節以下で答えてくれていると思います。

「あなたがたの中で子どもが魚をくださいというときに魚の代わりに蛇を与えるような父親がいったいいるでしょうか。卵をくださいというのに、だれがさそりを与えるでしょう。してみるとあなたがも悪いものではあっても自分の子どもには良いものを与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天の父が求める人たちにどうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

神も隣人も愛せない者、そんな罪人でも自分の子を愛し、出来る限り良いものを与えようとします。しかし、私たちの理性とか判断力、考えにも罪がありますので、本当に良いものを与えられません。悲しいですね。

イエス様がおっしゃった悪い者であっても、自分の子供には良いものを与えるという言葉が、そういう常識が通用しないような時代に私たちは生きています。

しかし、そんな時代だけれど、基本的には罪人であっても、やはり子どもには良いものを与えようとします。

 

イエス様は、罪ある人間の親でさえ持っている子どもに対する愛を見なさいと、

そしてそれよりももっともっと大きくて深い天の父の神様に目を向けさせています。

 

人間の親でも子を大切に思って、罪がありながら、不完全でありながら、もがきながらも子供を思うのに、聖なるお方で、完全なお方で、いつも私たちの事を考えている天の父なる神様が絶対に良いものを与えてくれる、与えないはずがない、と言います。本当にそうです。

 

そう考えた上で、先ほどの友人のたとえのところの問を考えたいのです。

神様は、私たちがしつこい祈りをするから渋々聞いてくださるのではありません。この友人の姿は神様ではなく、私たちの姿です。

 

私たちが人の求めに応じたり動いたりするのは友人だからという理由です。

つまり、純粋な愛によってというよりも、しつこいから、これ以上迷惑をかけてもらいたくないからという理由でようやく動くのです。

しかし、天の神様はいやいやではなく喜んであなたがたに良いものを与える、と言っています。

 

求めなさい、捜しなさい、叩きなさい。求める、そしてその先に得られるという法則とか公式ではなく、天の父なる神様が私たちをどれほど思っているか、愛しているか、です。

イエス様は、父なる神様が聖霊を与えてくださる、といいました。

聖霊は私たちを救い主イエス様と結びつけてくださるし、それによって私たちをも神の子としてくださり、神様に向かって「父よ」と呼びかけることができるようになるのです。

 

聖霊を与えることによって、神様は私たちとの間に父、子の関係を築いてくださいます。

このように考えていくと、先ほどの

求めるものが受けて、捜したものが見つかって、叩いたら開かれるって本当かなぁ、という問いがわかるのではないでしょうか。

 

私たちが祈り求めるものは、何でもひたすらに神様が与えてくださる、かなえられる、そういう風に考えるなら、そんなことはないです。

この箇所は聖霊を通して父と子の関係になった、天の父なる神様と私たちの事で考える必要があります。

 

神様が私たちを子として愛してくださる、父が子に必要なものを与えて養ってくださるように私たちを育んでくださるという約束です。

 

親は子に良いもの与えようとします。

子どもを本当に愛している親は必要なものを必要な時に与える、子どもが求めたとしても、今がその時でなければ与えない。

神様はもっともっと深く考えて私たちを養ってくださいます。

この御言葉はそういう神と人との、父と子の関係の中で読まないと正しく読めません。

 

2月の14日から受難節を過ごしています。今日はちょうど半分くらいです。

イエス様の苦しみと十字架の死を覚えつつ歩んでいます。

前にも言いましたが、私たちが「父よ」と呼べるのはこの御子イエス・キリストの尊い犠牲の上にあるのです。神様が罪人を赦し天の父となり、私たちを子として育んでくださるのは、ただただイエス様がいてくださるからです。

 

 


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